事件

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 ストローに口を付けてひとくち飲むと澪子は意を決した様子で唇を開いた。  清丸は敢えて体を引き、少し澪子の正面からずれる。 「私、以前周さんのお宅にお世話になっていたんです。」 「それは、何年前のことですか。」  擦れたところのないこりすが手帳を開き、澪子に質問する。澪子は体をこりすの方に向け姿勢を正した。まだ手は膝に乗せられたままだ。 「私が小学生5年生の頃から、高校を卒業する、少し前、響吾さんが会社を辞める前までです。」 「今から、3年前、」 「はい。当時私は、実の両親と暮らせない理由があって、遠縁の親戚に当たる周さんのお世話になっていました。」  暮らせない理由、の辺りで澪子の視線が右上方に動いた。右手で手首を握ったまま、左手が喉元を抑える。相当のストレスに自分を宥めている。死別、不貞行為の目撃、虐待、澪子の動作が訴える『理由』はその辺りだろうか。加えて先程の『男性に対する拒絶、嫌悪反応』。不貞行為の目撃か、性的なものを含む虐待か。 「響吾さんがお仕事の関係で欝状態になってしまって、私も大学に進学するのを機に千葉に。」 「澪子さんは千葉にお住まいなんですか?」 「千葉の大学の教育学部に在籍しています。」 「事件のことは」 「さっき、家に帰ったら立ち入り禁止のテープが張ってあって」  帰宅して初めて知ったということか。親族への連絡とは言っても、遠縁に当たり、しかも苗字も違う澪子への連絡は後回しにされたということなのだろう。 「警察官は、男ばかりでしたか」 「……はい。途中、別の刑事さんにも会ったんですが、私、ろくに話もせずに逃げてしまって」  また俯いた澪子の目元に涙が浮かぶ。こりすはその涙にぐっと喉を鳴らして感情を飲み込んだ。こりすの両目にまで薄い水の膜が張っている。 「響吾さん、義兄(あに)の写真を、見せられたんです。昨日、この男を見なかったかって」  澪子は喉元を擦り、形のよい眉を八の字に歪めた。 「近くで夫婦が殺されたって。義兄の行方がわからなくなっていると言われて。」  細い顎に皺が寄り、声が震える。 「私、判らないと答えました。嘘はありません、でも、本当は昨日帰るはずだったから」 「え。」 「予定では、私、昨日の夜帰るはずだったんです。でも、ルームシェアしてる子が、風邪を引いてしまって、その子のお母さんが来てくれることになったからせめてそれまではと思って」  折角お義父(とう)さんとお義母(かあ)さん、ゴルフのレッスンを休んでくれたのに。  無念そうに呟いた声がぽとりと机の上に落ちる。  もしも、予定通りに澪子が帰宅していたら被害者がもうひとり増えていたかもしれない。 「こちらには割りと頻繁に帰られるんですか」 「いえ、義兄が仕事を辞めて鬱状態になってしまったので」 「澪子さんと会わせられないような状態だった、とか。」 「いいえ。鬱状態になっても義兄は優しい、穏やかで理性的な人でした。だからかえって、本人が」  澪子は眦に溜まった水分を指先で弾き、少しはにかむ。 「澪子には、いつも格好いいお兄ちゃんの姿を見せていたいからって」  ほうとひとつ吐いたため息に、こりすもつられて溜め息を吐く。しかし、溜め息を吐かせている当人は、今のところ第一被疑者だ。 「ご両親と響吾さんの関係はどうでしたか」  こりすに割り込んで清丸は穏やかに問うが、澪子の目はぱっと見開かれたかと思うと下瞼に力がこもり、すがめられた。 「良好でした。」  端的に短く応えた声は先程とは別種の嫌悪、限りなく敵意に近いものに感じられた。 「響吾さんは義父と義母を尊敬していましたし、義父と義母も響吾さんをサポートしていて」 「金銭的に?」  おずおずとこりすが伺うと澪子はぱっちりと眼を見開いた。 「いえ。それはないと思います。」 「でも、響吾さんは引きこもりだったんじゃ……」  こりすの言葉に澪子は瞼を見開き、小首を傾いだ。 「確かに在宅業務が基本の仕事でしたし、義母が欝の予後を気にして独り暮らしはさせなかったようですけど、響吾くんは金銭的に不自由はなかったし、外出もしていたはずですよ」  澪子の言葉を受けたこりすはきょろりと眼を見開き、一瞬椅子から腰を浮かせて清丸を見た。清丸もこりすの視線には応えたが判っていたことなので、特に感慨もない。 「前の仕事を辞めて、友人の紹介でプログラミングの仕事に就いたって。納期さえ守ればどこで仕事をしても良いから、って。それが意外と性に合っていたみたいでこの4月に正規採用されて。私、そのお祝いで帰ってきたんです。」 「社会との繋がりがあるという点では、響吾さんは引きこもりではなかった、と。」  こりすは自分に言い聞かせるように呟いてすとんと椅子に落ち着いた。 「一般の人とは活動時間が違ったかも知れませんが、外出もしていたと思いますよ。クラブとか、仕事の紹介もそこでしてもらったって言ってましたし。」  「結構、社交的……」  澪子の話を聞きながらこりすは片寄った認識によるレッテル貼りの効果を思い出していた。
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