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事件
殺人の現場は凄惨なものだと言われた。
しかし、老衰でもない限り、凄惨でない死などないのが実際で、人間の生が無理矢理に引き千切られ、途絶えさせられることを思えば病床であっても戦場であっても凄惨であることに違いない。ただやはり、殺人事件といえば凄惨と伝えたほうが人間には印象に残りやすいのだろうと清丸宥志は考える。
現場である戸建ての住宅には囲うようにして青いシートが張られているが、その繊維を透かして死の臭いが漏れているように思えた。駐車スペースに停められた黒のレクサスにその臭いが積み重なる。
清丸の前を行く捜一強行犯8係主任、村山定晴警部補は人払いの交番勤務警官に軽く声をかけ、鑑識係長がどこにいるか尋ねた。慌てた様子でひょこひょことやってきた鑑識官に渡されたブラシでスーツを払い、不織布の靴カバーとマスク、手袋を受けとる。同様にして清丸もその三点を受け取り、立入禁止帯を潜った。先に着いているはずの捜一一係、同田貫管理官の姿が見えないのは先に死体現場に臨場しているためか。
村山は滲む死の臭気に当てられたようにその厳つい顔をくしゃりと歪めた。横にいてそれを見た清丸は同様に顔に力を入れ、表情筋を強張らせる。マスクと手袋だけその場で身に付ける。
身支度が整うのを待って青いシートは口を開き、清丸を含めた捜査員が体を潜り込ませるとシートは再び閉じられた。濃厚になった死の臭いは行き止まって滞ったようだった。滞った空気がゆっくりとシートに染みて外へ漏れていくのを想像してみたが、なんだか思うようにいかず、結局、想像や思い込みの問題だなと清丸は結論付ける。
玄関の三和土で、村山は底の磨り減った革靴を、清丸はレザースニーカを脱いで渡された不織布のカバーをそれぞれに履いた。
「洒落たもん履いてるな」
村山は足首で靴カバーのゴムを弾きながら清丸の足元を見た。
「見た目の割に走りやすいんです」
三和土に脱いだスニーカを目視して口を開くと現場に漂う死の臭気が口中に飛び込んできた。ひとくち吸い込んで、肺に落とし込んで、鼻から吐き出した。
「犯行時刻は割れてるんでしたっけ?」
「いや、どうだかな。同田貫の嬢ちゃんに聞いてみないことには判らんな」
口の中に入ってくる臭気を味わいながら清丸は真っ直ぐに廊下を進んだ。短い廊下の右側壁に扉があり、見た目や配置からそれがトイレであることが推察された。廊下の突き当たり、硝子の嵌められた扉を開く。
12.3畳のリビングだ。入って中央にソファ、その対面、向かいの壁に45インチテレビがテレビ台の上に載せられている。入口から見て左手に2階への階段があり、テレビの脇にはフォトスタンドがふたつ。家族写真と思われる2枚の写真には1枚は賞状とトロフィーを持った少年が、澄ましているがどこか自信に満ちた顔で写っており、両脇に正装姿の夫婦。2枚目は大学生か、リクルート姿の青年を挟んで中年夫婦が写っている。どちらもこの家の家族を写したものに違いなかったが、比較的最近撮られたように見えるリクルート姿の写真はそれぞれの立ち位置が、微妙に離れている。
逆サイドにはバラとカスミソウ、カーネーションの生けられた花瓶。テレビ台の横には、また扉。
マスクに不織布、青い作業服姿の鑑識がしゃがみこみ証拠採取をしている。リビング自体に荒らされたような痕跡はない。ソファの前に置かれたローテーブルには籐細工の籠に煎餅やチョコレートの入ったクッキーやらが入れられており、その横には飲み差しの湯呑みがふたつ。ひとつはでっぷりとした白地に青い波の模様が入った焼き物で、他方は模様は同じだが細身で淡い桜色といった風だ。どちらも半分ほど茶が入っているが零れた様子はなかった。
「あの扉1枚隔てた向こうとこっちじゃ偉い違いってことか」
テレビ脇の扉に目をやって村山は覚悟するように息を詰めた。扉はこれもまた硝子の嵌められたものだが、嵌められた硝子の向こう側、赤黒い飛沫が張り付いているのが見えた。
「1個班じゃすまねぇんじゃねぇか?」
扉にねっとりと張り付いた血液痕をじっと見つめながら村山が呟く。
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