事件

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 今日の待機は10係だったかと頭で思い出し、10係の面子を頭に思い浮かべてみたが、村山が扉を開いた瞬間それも吹き飛ばされた。  血溜りの中に死神が立っている。  少し顎を引いて正面を見据えたまま、清丸は思った。グレーのパンツスーツ。棒切れのような足に支えられた、凹凸の少ない薄い体は貧相にすら思えるが、しゃんと伸ばされた背筋と正された襟の硬さが他の捜査員を圧倒していた。 「遅かったじゃないか」  白髪混じりながら艶やかな黒髪をひっつめた死神が、猫目の目じりにはっきりと笑い皺を刻んで村山を見返った。 「そりゃ、一係管理官と我々を比べちゃおかしいだろうよ」  パンツスーツの同田貫は薄い唇の端を上げて足元を見た。 「まだこっちの足跡痕もとるからね、保護板以外のとこ踏むんじゃないよ」  死神か魔女かと思うような嗄れた声でそう呟くと血溜りの中で必死にピンセットを動かす鑑識に向かって「おい」と一声掛けた。ピンセットは意を得た様子で頷き立ち上がると保護板の範囲を広げた。 「一面血やらその他諸々だから吐くなら家の外。ってか、立入禁止帯の外まで出なさいよ」 「余計な心配だ、嬢ちゃん」 「村山警部補殿にはね」  視線を向けられた清丸は唇を結び、少し尖らせ、視線を逸らした。その他にも数人の捜査官が息を詰めたのが判った。嗅覚が麻痺するほどの生臭い臭気。血液だけじゃない。血液の匂いが圧倒的に多いがそれに混じった生肉と、骨と神経の匂い。  女性にしては低い声が節のごつごつした指で自分の唇を摘まみ、抓りながら清丸から視線を外して足元を見る。刑事課で2番目に古株で捜査一課一係庶務担当管理官である彼女を『嬢ちゃん』などと呼べるのは同期だと言う村山より他ないだろう。 「被害者はこの家の世帯主、(あまね) 修二(しゅうじ)59歳、妻、周 恭子(きょうこ)58歳。修二は公立中学校校長。今年度が現役最後の年度だった。恭子も教諭だったが、3年前修二の校長就任を機に退職、今は時間制講師として公立中学校で教鞭を採っていた。」と、典型的な中流家庭。  上流とまではいかない。困窮しているわけでもない。ただ、退職金がものを言うような職業でその実情を知っているのなら物盗りとしての旨味(・・)はまだない。しかし、実情を知らなければ戸建の坪数、駐車スペースに止められたレクサス、ガーデニングから物盗りが居直りに変わったか。しかし、深夜帯に押し入るのならば在宅の可能性が高いことは目に見えている。そもそも駐車スペースに車があったのだ。物盗りが目的ではない。端からコロシが目的か。  ダイニングキッチンであり、殺害現場であるこの場所では食事用のテーブルと4脚の椅子が壁に設置された食器棚に寄せられている。テーブルの脚に血液を引き摺った跡。同じように引き摺られて脇に寄せられ、壁に凭れさせた中年女性。こちらが妻の恭子だろう。左首から下が黒みがかった赤い粘液に濡れている。顔面は蒼白だが、着衣の乱れも、また、それ以外の損傷もない。手袋の手で頬に触れるとそれは布越しにも冷たさを感じるようだった。右側に頭を傾いで左首筋を見る。10センチ程の傷がパックリと口を開いていた。綺麗な切り口だった。許されるなら指を入れて深さを見てみたいものだが、それは検視官が行うことであって清丸に許されたことではない。切ったのか、刺したのか。10センチなら、どちらもあり得る。
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