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傾斜が急な階段は手摺が付いているといえど60近い夫婦にとってどのようなものだったのだろうか。
ダイニングキッチンで死んでいた母親は、決してスポーツが得意とはお世辞にも思えなかった。やや太めの体型に部屋着ながら身奇麗な印象を受けたものの、上品ではあるが機敏に動けるとは思えない。膝や腰への負荷を考えるとそう頻繁に上りたい階段ではなかったろう。
捜査員が踏み面に足をかけると踏み込みが軋んだ。古い家屋のような印象は受けなかったが思っているより築年数は長いのかもしれない。
階段を上りきると正面に扉が一つ。左右の突き当たりにひとつづつ扉があった。こちらは1階とは異なり硝子の嵌め込まれた扉ではなく一枚木で出来た扉だ。ハンドルは丸ではなく棒状の把手が採用されており、階段を上って左側がチェリーウォールナッツ、正面と右側がスモーキーオークと、色が分けられている。
「こっちは息子の部屋か」
チェリーウォールナッツの扉をさして村山が問うと鑑識は小さく頷いてその扉を開く。シャッターの開いていない洞穴が口を開けた。鼻を鳴らして臭うと薄く汗と精液のにおいがする。排泄物の酸い臭いはしない。引篭もりといわれていたが部屋の外に出ることは日に数回あったということだ。
主のいないベッドでモスグリーンの掛布団が脱け殻のように盛り上がったままになっていた。窓際にはラック付のスマートデスク。モニタを開きっぱなしのパソコンは電源が入ったままらしい。
「犯行直前までパソコンを見てたってことか?」
「その可能性はありますね」
村山の問いに答えながらマウスを動かすとパスワード入力画面に切り替わる。
「そんな簡単に開くもんか?」
「いや、無理です。サイバー課に任せるか、委託するのが無難だと思います。」
スクリーンは青い既成のもので特に特筆すべき点もない。ラックにはパソコンのデータ入力やソフトウェア、プログラミングに関する本が複数並んでいる。趣味と言うよりは仕事に使うような専門書が殆どだ。
その奥に埃を被り、変色した冊子が見える。
「本当に、引篭もりだったんでしょうか」
疑問を口にしながら清丸は1冊を手に取り、ざっと捲る。内容の中には親しんだものもあるが専門的すぎて判らないものもちらほらだ。
「どういう意味だ」
「今の時勢、外に出なくても出来る仕事はいくらでもありますよね」
「確かにそうだが、引篭もりには違いないだろう」
それは、そうだ。仮に息子が社会との明確な繋がりを持っていたとしても、内情を知らない人間から見たらこの家庭は齢三十を過ぎた無職の引篭もりを抱える家に見えるのだろう。
パソコンの脇にリビングで見たものと同じデザインの、恐らく父親のものと同じ大きさの湯飲みがある。こちらは色がやや薄い緑色で揃いのものであることが伺えた。中身はコーヒーだろう。三分の一ほどが残されている。傾けてみると液体が揺れた。
「これが父親を殺した凶器だな。」
パソコンの処理を他人に任せると決めた村山の興味はベッドの向かいに几帳面に重ねられたリングに向かっていた。バーベルのプレートだけが残されている。
「昨夜、何かの切っ掛けで口論が起こった。息子はバーベルを取ってキッチンに向かう。始めに母親を殺害して、父親を滅多うち。その後、逃亡。」
―――違和感しかない。
言葉に出されて一層不自然さが増す。
「わざわざ凶器を変えた理由はなんですかね」
「さあな、追々判るだろ」
現場から判ることは粗方把握した。これ以上はそれぞれの担当が証拠のより集めをしていく。
「パソコンとバーベルは回収。パソコンの方は解析に回しとけ」
村山の指示にノートパソコンとバーベルが収納される。
「ほかにありますか」
顔を上げた鑑識と目が合い、清丸は少し首を振った。そのほか特別回収を要するものに関しては自分が判断せずとも指示されているはずだ。
「この階の他の部屋は」
「向かいが夫婦の寝室。こちらは息子が引篭もってからは使われていなかったのかマットレスのみのベッドが二台、それから、」
「それから?」
「ピアノが置かれた部屋が一部屋。妻の趣味部屋だったのか、あるいは夫のものか。鍵がかかっていて開くことは出来ません」
ピアノ。
専門書の奥にあった変色した表紙、リビングに飾られた写真。
「息子のものである可能性もありますね」
呟いたとき、閉じたままのシャッターを震わせる音が聞こえた。
「どこまで公表するか、同田貫の嬢ちゃんは決めたかね」
村山の声に、清丸は見える筈のない報道ヘリを見上げた。昼のワイドショーではこの極めて残虐性の高い事件が一斉に報道されるだろう。
同田貫によって犯人と目された息子の姿が巧く思い描けない。頭に響くヘリの音にトロフィーを持ったリクルートスーツの男が頭の中で回っていた。
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