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天野の手が柔らかに、だが、確かに握り返してくる。掌の温度が高くやや乾燥している。引き際にそっと、指先で手の腹に触れた。天野は小さく息を飲んでその手を左手と合わせた。同じようにして清丸は掌を合わせて口を開いた。
「天野さんと組めることはとても心強いです。」
「え。」
「笑顔が素敵だし、社交的なようだから」
「いや、昔ッから喋るのだけは大好きで、1係では喋ってないと死ぬとか、呼吸のときに音が出るとかそんなことばっかり好き勝手言われてて!」
髪の生え際を指先で掻くしぐさを見て清丸は掌を離した。
「社交的な、しかも女性が一緒だと聞き込みもスムーズに出来ます。話が絶えないということは、それだけ好奇心が旺盛で見聞が広いということでしょう?それに、笑顔が素敵だと相手も心を開いてくれますからね。」
当たり障りのない言葉に天野は目を輝かせ、清丸の目をしっかりと見つめ返した。見るほどに転げ落ちそうなくらい大きな目だった。その目が屈託なく笑う。
「清丸さんは、想像と違いました。」
「そうですか?」
散会していく捜査員に今気が付いたような振りをして清丸は「行きましょうか」と天野を促した。今日は目撃情報と響吾の人柄について近隣住人に聞き込みを行うことになっている。
車のキーを取った清丸にあとから付いてきた天野が「私が」と手を差し出した。土地鑑は所轄刑事である天野の方があり、仕事であることから考えてここでむやみに渋る必要もないだろう。素直にキーを渡し、助手席に座った。
「もっと、恐ろしげな人かと思っていました。」
「恐ろしげ、ですか。」
運転席に座した天野はシートを引いてシートベルトを締め、キーを挿した。目測にして身長160センチ前後。低めだがヒールのあるパンプスを履いているので実際には160センチに満たないだろう。小柄で色白、やや茶色味がかった髪はなるほど、確かにこりすという名前にはぴったりだ。
「小河内東小学校児童殺傷事件、」
エンジンをかける直前、こりすの顔がこちらを見た。
「あの時、小河内東交番勤務だった、清丸さんですよね。」
大きな目と視線がかち合う。よく見ればこりすの目ははっきりとした二重に目尻が僅かばかりつりあがっている。小さく形の良い小鼻がひくひくと動いている。こちらに興味があることを隠しもしない、素直な表情だ。愛嬌があり、誰からも愛される風貌だ。
品定めするような目で清丸を見ていたことに気がついたのかこりすはそっと視線を外しエンジンを掛けた。小動物然とした黒目がちの眼が正面を捉え、静かに車は発進する。
蝉時雨が耳の奥でさんざめいた。山颪が汗ばんだ頬を舐めていく。目の前に山並の丘陵が見えた気がした。
「そうです。」
そう遠くない過去の夏が首筋に蘇ってくる。鼓膜の奥。脳髄の辺りに響く悲鳴を清丸は思い出して反芻した。
開いて座った脚の間に組んだ両手を預け、進行方向を向く。
「男児が1名、犠牲になりました。思い出したくない、痛ましい事件です。」
「でも、清丸さんが犯人を確保した。」
「自分が、第一臨場でしたから。」
「犯人を素手で倒したって。だから私、筋骨隆々のマッチョマンだと思っていたんですよ」
「マッチョマン、ですか」
組んでいた手を解き、左手を口元に宛がって喉を鳴らした。
「奥多摩って山があるじゃないですか。だからそのイメージも相まって、熊みたいなごりっごりのマッチョだとばっかり」
「それは、すみません。ひょろひょろのモヤシ男で」
期待はずれでしたねと笑うとこりすはハンドルを握り締めたままで大きく首を振った。
「いえいえいえいえ!違います!期待外れなんかじゃないです!むしろ逆で……」
そこまで言いかけたところでこりすは思い至ったように顔を真っ赤にしてフロントガラスを睨み付けた。
「私、学生のころあの事件をニュースで見たんです。そのころにはもう警察官を目指していて。出来れば性犯罪の捜査をしたくて」
性犯罪は立証も起訴も難しい犯罪だ。男社会の警察では未だに無神経な発言も多く、訴え出たことにより、被害者が一層傷つけられる現状も少なくはない。その反面で、今の時代それを憂慮した女性が被害者の力になりたいと志願し、目指すことが多くなった。
「生活安全課が志望ですか。」
「いいえ。」
こりすは清丸の言葉をはっきりと否定した。
「そのつもりでした。社会で弱者といわれる人たちを守りたい。その人たちの傍で笑って元気付けてあげられる『お巡りさん』になりたい、そう思っていたんです」
でもそれは、あの日見たテレビの中の映像によって変えられた。
旋回するヘリで上空から取られた映像。うだる暑さに張り付いたシャツ。溶けたアイスが指先を汚すのさえ気にならなかった。
「山に囲まれた小学校のグラウンドでした。すでにPC(パトカー)が3台、救急車が2台現着していて上空からでも連行される犯人と砂に広がった血液、誰かが脱ぎ捨てた靴がはっきり確認できた。」
その日を思い出したようにこりすの顔が緊張帯びたものになる。
「それを見ていたら、殺された人を守るのは誰なんだろうって、犯人よりずっと力の弱いこの子の、無念を晴らせるのは誰なんだろうって。」
前方の信号が赤に変わる。車は静かに速度を落とし、反動もなく静止した。
「考えたら、刑事達しかいないんだって。」
輪郭まで真っ黒な瞳が真っ直ぐに清丸を見つめていた。
「生きている人も、亡くなった人も、守れる刑事になりたいと思ったんです。」
「だから、刑事課?」
「はい。あの事件で男の子の無念を晴らしたのは、清丸さんでした。あの日から、清丸さんは私の憧れなんです。」
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