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車をコインパーキングに停め、こりすと清丸は住宅地に向かって歩いた。
今はどこにでもある高層マンションが、この地域にはない。
「住民の殆どが安定した所得層で比較的生活に余裕があります。駅前の1番街は昔ながらの居酒屋で夜中まで明るいんですが、こっちの方まで来ると運動場と公園に囲まれていて夜は早くに街灯が点けられるんです。」
東京五輪に向けた道路拡張工事を横目にスポーツ科学センター横を通る。スタジアムに併設されたテニスコートは平日ながらも何人かの利用者がある。仕事帰りと思われる若い会社員風の人間もいるが、多くが被害者夫婦と同年代に見えた。センターを通り過ぎるとすぐに自然公園が見え、ウォーキングに興じる人、ランドセルだけを帰宅させた小学生、そろそろ夕飯の支度をしようかと腰を上げる若い母親、夕方のせわしなさを感じさせる前の日常風景が広がっている。どちらかといえば被害者夫婦の姿はこちらの自然公園のほうが馴染みそうだった。
「犯行の時間帯は夕飯時、あるいは帰宅時刻。目撃者が複数いてもおかしくないと思いますが」
パンツスーツのこりすは赤い手帳を開いて清丸に話しかけた。歩幅が広く、回転も早くなっている。清丸は敢えてそれに合わせることはせず片耳でこりすの話を聞いていた。
自然公園を抜けると住宅が整然とならんでいる。広い桜の並木道に昔ながらのタバコ屋や駄菓子屋、銭湯もあり下町の風情がある。京都のそれとは規模が全く異なるが碁盤の目になった区画は昭和の時代に海軍居住地として整理されたらしい。
「区の条例でこの地域は建築物は50坪以上と定められています。住宅によっては100坪以上のものもありますし、周修二宅も52坪。隣家は60坪ありますので、夕飯時、隣家で不審な物音がしても気づきにくいかもしれません。」
確かに。喉を掻き切られた恭子に関しては声を出す間も与えられず、また、声を出すことも叶わなかった可能性がある。修二は仮に一撃目が致命傷になったとしても、あそこまで滅多打ちにすればその音は発生したはずだが、壁の薄いアパートでもない限りその音が隣家まで響くことはないだろう。
「出はキッチン勝手口という話でしたよね」
「ダイニングキッチンと勝手口以外に血液による足跡痕や指紋は見当たりませんでした。」
キッチン勝手口から裏門に続く飛石には数敵の滴下血痕。恭子を殺害した刃物の発見に至っていないのでそこから滴ったものと考えられているが、これも清丸には不自然に思えた。2階から持ってきたバーベルを一旦脇においたまま、刃物で母親を殺害した。その後、手に持っていただろう刃物ではなく、再びバーベルを持ち、父親の頭を粉砕する。そして、父親の手をミキサーでミンチにし、バーベルとミキサーはおいたまま、刃物だけは持ち去る。行動の意図が読めない。
「妙な行動ですよね」
「え。」
明瞭に響いた清丸の声にこりすは耳をひくつかせた。清丸は「いえ、」と歯切れの悪い返答をして慎ましく笑いかける。
「取り敢えず私たちの仕事は近隣住人への聞き込みによる周響吾の交遊関係と人柄情報、目撃情報の収集です。」
「はい。」
清丸の言葉に引っ掛かりを感じながらこりすが答えたとき、ちょうど斜め前方の家屋から女性が庭先に出てきた。
年の頃は50代半ばから後半、丁度恭子と同世代だろう。
「あ。あの、すみませーん!」
幼さを充分に宿したこりすの声が柵の向こうで何かを手に取ろうとしたその女性を振り向かせる。
「ちょっとお尋ねしたいんですけれども」
「はいはい、何かしら」
人好きのする顔で柵から顔を覗かせた女性は同じく柵から顔を覗かせたこりすに全く警戒心を持たなかった。顔を歪めることも訝しむ様子もない。
「赤羽警察署の天野と申します。こちらは、」
「清丸です。」
手帳を開いて身分を証明すると、こりすは慌てたように自分の鞄を漁り始めた。
「昨夜、この辺りで事件がありまして、」
話ながらごそごそと鞄を探るので、周響吾の写真でも出すのかと思えば取り出したのは警察手帳だった。
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