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それは突然の大雨だった。
森の大地はぬかるみ、葉に当たる雨粒が轟音となって周囲に轟く。
霧が一帯を包み込み、迂闊に数歩進む事さえままならない。
一際大きな木の下でエルサは雨宿りをしていた。
想像以上に霧が濃く、とてもではないが森を抜けるのは不可能に思える。
雨足が次第に強さを増しているようにも感じられた。
途方に暮れていたところに、ふと不思議な香りが鼻孔をくすぐる。
それは長年森を知っているエルサでさえ嗅いだことのないものだった。
疑問に思って顔を上げた瞬間――。
「困りましたね」
柔らかな口調と共に一人の男性が現れた。
「雨が降るとは思いませんでした。お互い災難です」
先ほどまでは誰もいなかったはず。
そう思うよりも先にエルサは彼の声に耳を傾けていた。
濡れた短い黒髪に整った鼻立ち。青の瞳は深い色合いをしていて、呆気に取られたエルサを包み込むように見下ろしている。
おとぎ話に出てくるような人。
それが最初に抱いた感想だった。どんな不可思議も気にならないほど、彼女は一目で彼に心を奪われたのだ。
「どうかしましたか?」
「な、何でもありません」
心臓の鼓動が速くなる。
「せっかくですから、少し話をしませんか? 僕は色々な町を渡り歩いて商売をしている。旅の商人なんです」
「あっ。私は――」
それからエルサはその男性と様々なことを話した。彼の旅の話は森と町を行き来しているだけのエルサには想像もできないような内容ばかりだった。
夢中で時間を過ごしていると、いつの間にか雨は止んでおり、葉と葉の間から陽の光が漏れ始めていた。
「おや。雨があがったようですね」
「え、ええ」
「楽しい時間をありがとうございました」
「こ、こちらこそっ!」
「では、またどこかで」
去っていく彼の背を見て、エルサは突端に猛烈な寂しさを感じる。
「あの!」
彼の足が止まった。
「この近くの小屋にいますから! 町にも……たまにいますから! また会ってくれますか!」
彼はにこやかに微笑むと、丁寧なお辞儀を返す。
「ええ。喜んで」
それからエルサは町に行く時などに度々彼と会うようになった。彼が畑を見に来てくれたこともある。彼女にとってその時間はどんな時よりも楽しく愛おしいかけがえのない時間だったのだ。
しかし――。
ここ一年ほど彼の姿が見えなくなった。
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