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「――危ないよ」
不意に背中から声がかかって、私は息を止めた。恐怖に全身が粟立つ。心臓が掴まれる。こんなところに人がいるはずがないのに。
「落ちちゃうよ」
もう一度その声は言う。抑揚も感情もない声。この先に道がないことに、気付いていない私に教えてあげようとしているみたい。若い声。若い男の声……。
その時、下から這うようにビル風が吹き上げてきた。私はよろめく。ごおおっ、うなるような低い音。
強い風が意志を持って舞う。倒れないように必死になって足を踏ん張る。ビル側に倒れ込みそうになって、その反動で今度は外に向かって身体は持っていかれて……。
あ――終わった。
私は目をつぶる。次に開けた時には何が見えるんだろう。地獄かな。痛いのかな。でも、きっと気持ちは楽になる――。
「危ないってば」
ぐいっと、誰かが私の腕を掴む。強い力。私の身体は引っ張られ、ビル側に派手に転がる。
「死んじゃうとこだったじゃん。こんなとこから落ちたら、周りの迷惑でしょ」
膝を擦りむいて、私はコンクリートに投げ出される。その男は呆れたと言わんばかりの口調で言って、私を上から見下ろす。
「死ぬなら、ゴミ袋に入ってから飛び降りなさい。ぐちゃぐちゃになった死体、片付ける人の身にもなってよね」
「……うそ」
その人の姿を見て、私は息を飲む。唖然とする。呆然とする。やっぱり私は死んでしまったんだ。
だってそこにいたのは、天使だったから。満月を、背中に背負って。
「うそじゃないよ。自殺者の礼儀。自己中にもほどがある。ああ、スマホ吹っ飛んだ……」
真っ白い肌と銀色の髪。とても背が高くて華奢な身体で。なぜかとても甘い匂い。
足元のスマホを拾い上げて私を見る。アイスブルーの目。耳にはイヤホン。ジャックはスマホから引き抜かれていて。手の中のスマホからはピアノ曲が流れる。
「……天使?」
信じられなくて訊いた私に、その人は微笑んだ。
「いんや、人間。レモンを買いに出た。サボってたら、自殺志願者発見。いい月を見て、いい音楽を聴いてたのに」
「……音楽?」
私はその人から目が離せない。あまりに綺麗で。この世のものとは思えない。
「うん。ドビュッシーの『月の光』。こんな冬の夜にはぴったりだよ。君も、聴く?」
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