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「最後に奥さんと話をしたのは」
「ちょうど、明日で三ヶ月かな」
「即答だね。何かあったの、その日」
「俺の誕生日だったんですよ」石沢の表情は静かなままだ。「誕生日なんだから抱かせろって言ったら、『死ね』って」
僕はコーヒーを飲む手を止めた。姿勢はそのままで、観察の目を広げる。クライアントの体に現れるストレスの兆候――服の汚れや臭いでも分かることがある。石沢の表情は、乏しいのではなく、失われたのかもしれない。
「ずいぶんだね」
「だからそのまま、いつもの店に直行」
下卑た笑いと一緒に垂れた茶色いよだれが、シャツを汚した。敵意と自虐とでざらつく声が耳障りだ。僕はコーヒーを置き、ラジオのスイッチを入れた。印象派風の音の並びのピアノ曲が聞こえてきた。呼吸を整えて心を落ち着かせようとする。笑い続ける石沢には、BGMはもちろん、僕の姿さえ知覚されているのか疑問だ。
そのとき、ピアノの駆け上るパッセージを聞いていて、思いついた。
「シド、だね」これ以上、石沢を優位に立たせる理由はない。
「ああ、なぞなぞの答え」
「そう。これは、階名のことだ。ソラの上にあるのはシド」
「違いますよ。シド、って何」浮腫んだ手を叩いて笑う。
「じゃあ、何だっていうんだ」カウンセラーが苛立ってはいけないと分かっていても、石沢が相手とあっては我慢しきれない。
「『シ』ですよ。階名まで気づいたなら、もう少し頭を捻ってくれればいいのに」
「シでもシドでも同じじゃないか」
「シは、『死ぬ』の『死』です」石沢の目つきが変わる。「『空』を越えてその先に行くと『死』が待ってる。そして、そのさらに先にあるのは」
石沢は言葉を止める。それは、これまで見たことのない石沢だった。姿勢は変わらずソファに深く埋もれていたが。
「ド、つまり『土』です。人は死んで空を越えるけど、遺体は土の中。結局は同じサイクルの中に戻される。要は、死んでも人は救われないってことです」
階名は巡る、どこまでも、いつまでも。
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