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「――店から帰ってきたら、女房は寝ちまっていて、家中、真っ暗でしたよ」
話の変化についていけない僕は、ラジオを止めた。石沢が突然、ソファから体を起こして身を乗り出した。部屋が小さくなったように感じた。
「あれから三ヶ月、何の話もしていません」
「それは大変だね」
「どうして?」
「どうしてって、コミュニケーションが必要だろう。食事だったり――」
「ああ、食事ね。それなら、女房が食べた後の残りがありますよ。それで足りなきゃ、冷蔵庫にはピーナツバターが入ってるし」
石沢はシャツのボタンの間から腹を掻いた。ぼりぼりという音に合わせて、腹回りの肉が揺れた。
「なるほど」そう言うしかなかった。「でも、奥さんがいなくなって、困ってるんだよね」
「先生、俺の話、聞いてた? 女房がいなくなったって、困ったりしませんよ」
「はじめの質問は何だったんだ」
「俺が聞いたのは『どうしていなくなったか』――俺が知りたいのは、その理由ですよ」
違和感があった。あのなぞなぞは何だったんだ。石沢はまだ僕より優位に立っているんじゃないか。奥さんがいなくなったのはいつなんだ。
「店の女を落とそうと思ったんです」石沢が、僕の手を見ている。落ち着かなげに組まれた両手を。「一度失敗したら、今度こそって思うもんでしょ。だから、女を逃がさないコツを教えてもらいたくって。先生は、そういう仕事じゃないですか」
組んだ指を解いて立ち上がった僕は、石沢の大きな手を見た。深く折り畳まれた皺の隙間から、何かがこぼれ落ちるのを見逃すまいとしたが、皺はいつまでも皺のままだった。
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