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プロローグ
もしも、だ。
他人の恋愛感情が数値化され、視覚化されていたならば……。
そんなことを夢想した経験のある人は、少なからずいるのではないだろうか?
「──ねえ、知ってる? 最近うちの学校で流行ってる、恋のおまじない!」
「えー、なにそれー?」
昼下がりの教室。窓際の席で頬杖をつき、ぼんやりと窓の外を見ていた彼──明日原逢介は、そんな雑談を耳にして教室内へと目を戻した。どうやら今の会話の主は、彼の近くにいた女子二人のものだったらしい。可笑しそうにその『恋のおまじない』を話題にする彼女たちを横目で見ながら、逢介は人知れず小さなため息をついた。
……そんなもの、なんの意味もない。そう、辟易して。
『恋愛』とは辞書によると、一組の人間が互いを恋い慕うことを指すらしい。相手のことを想う気持ちが相互に成立することで、恋愛という特別な関係が初めて形成される。つまり、相手のことを理解することが、何より重要なのだろう。
しかし、他人を理解することには必ず限界がある。
誰が、誰のことを、どのくらい好きなのか。
本当は心の中で、どんなことを思っているのか。
何をしたいと考えているのか。
恋愛関係が……ちゃんと成り立っているのか。
それらは他人には、数値化も視覚化もされていない。いわば、ブラックボックス。明らかにしようとするには、言葉を交わし、態度に示し……、そこに、手を突っ込むしかない。──たとえそこに、蛇蝎の如き悪感情や、都合の悪い事実があるかもしれなくても。
だから人は、相手の感情に向き合い、詳らかにすることを恐れ、恋のおまじないや明日にでも使える恋愛テクニックなど、自らが勝手気儘に向き合うことが可能な情報を持て囃すのだ。相手にどう思われているかよりも、自分がどう思うかを、いつだって優先する。それが、この世の《恋愛》の大半だ。
ならば──。
「──おい、明日原!」
「……え?」
その時、彼の名を呼ぶ声が、逢介の意識を現実に引き戻した。
「……悪い。ぼーっとしてた。なんだ?」
眠たそうな反応を返す逢介に、井上和希が不機嫌そうに唇を尖らせた。逢介の友人の一人である彼は、教室後方にある段ボールを加工した箱を指差す。
「道徳のノート出したか、って聞いてんだよ」
「あ、ああ。まだだ。今出すよ」
逢介は鞄の中から一冊のノートを取り出した。彼と共に、段ボール箱へと向かう。この段ボール箱は、課題ノートを提出するために設置されたものだ。和希が、ノートを箱に放り込みながら逢介に訊ねる。
「お前、どんなこと書いたんだよ」
「え?」
「とぼけんなって。課題だよ、道徳の課題。分かるだろ」
──『恋愛について、どう思いますか』。
二週間前に課された課題のテーマが、逢介の脳裏によぎった。逢介は須臾沈黙してから、眉根を寄せる。
「……いやいや、恥ずかしいから。ならお前が先に言えよ」
「やだよ、恥ずかしい」
「そう思うなら俺にも聞くなよ……」
軽口を叩きながら、逢介はノートを裏向きに箱に入れた。そのまま和希と、その場を離れる。
──恋愛について、どう思うか。逢介なりの答えを、思い浮かべながら。
この世に蔓延る《恋愛》は、理解不能で、摩訶不思議で、意味不明な……そんな『謎』に、他ならない。
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