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「潤君、大丈夫」
幸子は、 シートに倒れこんできた潤の肩を両手で起こしてあげようとした。
「うわぁ、ごめん」
一瞬で 潤は上半身を腹筋でニョキッと直ぐに起こした。
「では、田中様シートベルトをお締めください」
運転手が振り向いて、潤に声をかけてきた。
「さっ様は、僕はただの、ただの人なのでして…シ、シート…」
幸子はどんだけ凄いお嬢様なんだと混乱状態の脳内。
そして、経験した事がない豪華な車内に圧倒されて、今の潤は平常心ではない。
シートベルトのかけ方が分からず、右、左、右、左、上の順番に顔を動かしている。
二巡目の右を向いた時、
「潤君、そこだよ」
幸子が微笑みながら、伸びたシートベルトを手に取って教えてくれた。
「あっ……ありがと」
幸子の微笑みは、黒目がちな大きな瞳が半月の形になって、小さな口が一文字になる。
数十分前商店街で見た微笑みと同じなのに、いとしくてたまらないはずなのに……。
今の潤には、幸子の微笑みが、切なくてたまらない。
まともに幸子の方を向けないので、 外の雪景色を眺めるフリをしてみたら、
窓ガラスいっぱいに、 バンドマンの顔面が。
「うわっ」
のけぞりながら、
「あいつ、何がイエーイだよ」
声は聞こえないが、口の動きと、手を上にあげた動作で雄叫びをあげているのがわかった。
くすくす、幸子が横で楽しげに笑っている。
幸子と目があった。
(さっちゃんのウサギの笑い方……いとしいけど、切ない、俺心弱いな…)
「では、参ります」
静かに、超高級車が動き出した。
バンドマンの顔が見えなくなる瞬間。それまでのトボけた顔から一転真面目な顔に変わった。
「が ん ば れ」
口の動きと、拳を握ったポーズでわかった。
「あいつ」
左頬を窓ガラスにぴったりくっつけて、顔が半分ぺちゃんこになっても、小さくなるバンドマンを目で追っていた。
(心強さ、もらったぞ……ありがとう)
潤は、ジャケットのポケットに手を入れた。
肌触りがいい感触を確認しながら、唇をギュッと噛んだ。
「いい匂いがしてますね」
突然、 助手席からヌメッと顔を出した老婆に
「うわっ」
前向きな気持ちになれた潤なのに、再びのけぞった。
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