【三段目】浄魂の剣 六星剣 ―ロクセイケン―

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 翌朝は、打って変わって夏曇りとなった。 にも関わらず、薄暗い曇天を見上げる薙は、いつにも況して機嫌が好い。 昨日の演奏会は、予想外に素晴らしいものであった。アットホームな雰囲気でありながら、演奏そのものはかなりの腕前で、オーディエンスは、その甘美な音の戯れに熱狂した。  勿論、薙も例外ではない。 昨日演奏された中でも、最も印象的だったチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調を鼻歌で唄いながら、里帰りの身支度に励む。  一年振りに再会する母。 生まれつきの喘息持ちで、ともすれば病気がちになる中を、優しく強く導き育ててくれた彼女に、薙は尊敬と憧れを抱いていた。 母の喜ぶ顔を想像しながら選んだ土産物を、一つ一つ丁寧に紙袋に詰め込む。 「花月堂のロールケーキでしょう?チロルのチーズケーキに、巌手屋のチョコ南部。それから、戸田久のお茶餅!うーん…ちょっと買いすぎたかなぁ??」  一慶を町中引っ張り回して、買い集めたお土産の数々。 呆れ果てる彼を尻目に、B級グルメに舌鼓を打ち、ドキドキしながら歩いた街角。 夢の様な日の余韻を引き摺りながら、薙はウキウキと支度に勤しんだ。そこへ、ほとほとと戸が叩かれて、彼女は弾かれた様にそちらを振り向く。 「はい、どうぞ?」  大声で招き入れると、白木の扉がスラリと開いた。現れたのは、孝之である。珍しくキチンと身形を調えて部屋に入って来た叔父を見て、薙は怪訝に小首を傾げた。 「おっちゃん…どうしたの?余所行きの格好して、何処かに行くの??」 「あ~うん、実はな。いちの奴に頼まれたんだ。」 「頼まれたって、何を?」 「お前、里に帰るんだろう?」 「うん、一慶が連れて行ってくれるんだ。」 「それがな…アイツ、行けなくなっちまったんだ。」 「…え!?」 「今日から本格的に眞鍋の取り調べが始まるんだが、その立ち合いを、急遽アイツに頼んだんだよ。」 「そ、そう。眞鍋の取り調べが…」 「そうなんだ。でな?代わりと言っちゃあなんだが、里には俺が連れて行く事になった。お前に謝っておいて欲しいと、いちからの伝言だ。」 「うん、解った…。おっちゃん、宜しくね?」 「おう、任しとけ!」  何やら嬉しそうな孝之。 愛姪の同行を心から喜んでいる叔父に反して、薙は気落ちした様に小さく溜め息を吐いた。 浮き立つ気持ちに急ブレーキが掛かる。 一慶と共に里帰りする事を心待ちにしていただけに、彼女の落胆は大きい。
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