一冊

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 きっかけは、よくあることかもしれない。けれど、二人にとっては大きな出来事だった。  当時、二人はテニス部に所属していた。 「芽衣、最近うまくなったね」  そう声をかけたのが、芽衣をテニス部に誘った雛子だった。 「雛子に教えてもらったおかげだよ。テストが楽しくてしようがないの」  始めは重いと感じていたラケットも、今はすっかり手に馴染んでいる。そうして、周りより何時間も練習を重ねるうちに、芽衣はみるみると上達していった。 「うちのエースは、芽衣だよね」  いつしか、芽衣はそう声をかけられることが多くなった。  部のみんなが口を揃えて言うたびに、雛子の笑顔がいつもより重くなった。芽衣は、そんな雛子に気づきながら、どう声をかけようか悩んでいた。  そんなある日のこと。  何かの話の延長で、1番強いのは、芽衣だよ、と言いかけた雛子の肩が、小刻みに震えた。 「芽衣、もうわかってるんだよね。芽衣がエースって周りに言われていて、嬉しいはずなのに、どうしても、悔しさが残っちゃって……。芽衣が一生懸命練習しているの知っているのに、ごめんね……」  そう言った雛子の肩に、そっと手をおくことくらいしか、芽衣にはできなかった。  雛子は優しい。芽衣は努力をした。そして、二人ともテニスが大好きで、本気だった。  慰めることも、謙虚になることも、本気だった二人の間では、嘘くさくなると感じた。  どこまでも真っ直ぐで、お互いをわかっているから、どんな言葉も無意味なのだ。何を言いたいのかなんて、わかっている。誰も悪くないのだ。でも、抑えきれない思いもある。  それからしばらく、二人は静かに細い涙を流しあった。  数年経った今、振り返っても、なんて答えればよかったのか、わからないままだ。  ただ、本当に言葉を交わさずして、私たちはわかりあえていたのだろうか?
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