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おかえり
化粧する彼女の横顔を眺める。化粧は原則禁止だから、クリームを薄く伸ばして、リップを塗るぐらいだ。それでも彼女の顔はより華やぐ。女の人の顔になる。
「綺麗やな」
山田さんは嘘がないからいいね、さらりとそう言っても嫌味じゃないのがさすがだと思う。
「じゃあ、いってきます」
昨日買ったお土産を片手に、彼女は私の手を握った。彼女の手は驚くほど冷たかった。涼しい顔をして、つらいこと、悲しいことを、彼女はこうして一人で受けとめてきたのだろう。今日だって、本当は自分も進むはずだったまっすぐな道をゆく旧友に、もうどうしようもない過去のことを謝られるのだ。辛いに決まってる。
彼女は強い。強いから、ふとしたことで折れてしまわないか私は心配だった。力をこめて手を握り返した。
「行かんでええ」
「え?」
「行かんでええ。ずっとここにおったらええ」
私の体温が彼女に伝わっていく。
彼女は笑って、私の手を離した。分かりきったことだった。
「千里って、わたしずっと距離のことだと思ってた。沢山の里って意味もあるのね。いい名前だと思うよ」
突然そんなことを言われて、私は何も言えなくなってしまった。
「三時には帰ってくると思う。だからそのときはここにいてほしい。おかえりって、言ってほしい」
彼女の背中が見えなくなるまで見送って、私は自分の部屋に戻った。部活をしている人たちはとっくに寮を出ていった。彼女も出ていった。残されたのは薄情な私だけだった。誰もいない寮はとてつもなく静かだ。私はベッドに潜り込み、ひとりきり、記憶の海に沈んだ。
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