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奇妙な客
『花屋はお客にお花を買っていただくことで成り立つ商売なの。でも、花は生活にどうしても必要というものではないわ。そうした商品をお客様に気持ちよく買ってもらうため、花屋は工夫を凝らしていくの。
人通りの多い場所に立地したお店だったら、まず、前を通りかかった人に立ち止まってもらうことからね。そのために店頭のディスプレイに工夫を凝らし、店の前に立ってこまめな声かけをするの。朝晩のあいさつをし、新入荷の季節の花を紹介するのよ。
興味を持ったお客様が立ち止まって、店頭の花束やアレンジメントを眺め始めても、すぐに話しかけることはしないの。花を売りつけようとしていると警戒されてしまうから。店頭の花の手入れをしながら近くで待機して、お客様がひとつの花に見入ったり、花同士を見比べしはじめたりしたところで、話しかけていくの。売込みではなくって、花言葉や品種の由来についてお話してその花へ親しみを持ってもらえるようにして、買ってみようと言う気持ちにつなげていくのよ。
立ちどまってくださったお客様については、花を買ってくださらなくてもその顔を覚えるようにするの。次に通りかかられた時には、大きめに会釈をしたり、あいさつの際に一言付け加えたりして、歓迎する気持ちをさりげなく表すのよ。これを地道に積み重ねていくことで、お花を買っていただけるお客様を少しずつ増していくことができるのよ』
と言う店長の教えに従い、フローリスト葵(あおい)の店員早瀬は店の前を通る人たちに挨拶を行っていた。
「お早うございます」
時刻は朝の七時半頃、フローリスト葵は私鉄の駅の近くの商店街にあり、近くの団地から駅への通路にあたるため、会社に向かう人や学生が次々と店の前を通り過ぎていく。
「お早うございます」
「お早うございます」
早瀬が声をかけてもそのまま通り過ぎていくひとがほとんどだが、いつものことなので気にせずにあいさつを続ける。
早瀬がこの店で働き始めてから一か月が過ぎていた。毎日声かけをするうちに顔を覚えた客も増えていた。団地側から歩いて来た女性もその一人だ。年齢は二十代半ばくらいか、あご下あたりでカールさせた髪に、細めの眉で切れ長の目、落ちついた色合いのレディーススーツを着て、皮のトートバッグを肩にかけている。早瀬のあいさつにはいつも会釈で応え、何度か立ち止まって店頭の花を見てもらい短い会話をしたことがあったが、まだ花を買ってもらったことは無かった。近づいて来た彼女に、今日こそはとの期待を持って声をかける。
「お早うございます。新色のカーネーションが入荷しました。よかったらご覧になって行ってください」
「見させていただこうかしら、ところで……」
立ちどまった彼女は店頭のディスプレイではなく、店の中の大型ガラスケースに目を向けた。
「下の段にあるのは黒百合なの?」
「はい、今日から入ったものです」
「あれをいただきたいのですけど」
「かしこまりました。何本ほどでしょうか?」
「お店にある全てを」
彼女は全ての黒百合を買い上げて行った。そして、次の日も……。
三週間後、フローリスト葵の定休日である木曜日に早瀬は恋人の瑠美とファミレスで話をしていた。
「そう言って、店にある黒百合を全部買っていくんだ。変わっているだろ」
瑠美は首を傾げ、レモンティーを一口飲んでから答える。
「全部って何本くらいなの?」
「うちはいつもひとケース仕入れている。その全てだから二十本」
「それを毎日?」
「ここ三週間、毎日だよ」
「何に使うのかしら」
早瀬はテーブルに肘をつき、手に顎を乗せた。
「大きな美容室なんかだと店に飾るために定期的に買ってくれるんだけどな。もっと華やかな花を選ぶし、花の種類や色を取り混ぜて買うものなんだ。それに領収証を求められたこともない。私用で使っているんだろう」
「不思議な話ね。黒百合ってどんな花なの?」
「名前は百合ってつくけど、百合とは別の仲間の植物なんだ。葉っぱは百合に似ているけど、花の形は桔梗や竜胆に近い。濃い黒紫色をしている。花言葉は『愛』、『呪い』と言うのもある」
瑠美は目を瞬かせた。
「なんだか対照的な花言葉ね」
「うん、昔の武将が不実を疑った側室を斬って呪いをかけられたと言う伝説がある。黒百合が咲くときにこの家は滅ぶってね」
「あら」
「一方で、アイヌの人々にはこんな言い伝えがある。好きな人の近くに黒百合の花を置いておいて、相手が誰が置いたかを知らずに手に取ったら、二人は結ばれるって」
「それで『愛』と『呪い』なのね。私は結ばれる話の方が好きよ。そうね……」
瑠美は指をこめかみに当てて、早瀬を見つめた。
「その人は三週間くらい前から黒百合を買い始めたのよね。その前には花を買っていたの?」
「いや、何回か立ち止まってもらって店頭のディスプレイを見てもらったことはあるけど、買ってもらったのは黒百合が初めてだ」
「いつも花を買っていた人じゃあないってことよね。じゃあ、こんなのはどうかしら」
瑠美はテーブルに体をのり出した。
「三週間ぐらい前、その女性に好きな人ができたの。女性はアイヌの言い伝えを知っていて、意中の男性が手に取りそうな場所に黒百合の花を置きまくっている」
「一日二十本を?」
「ええ」
「それを毎日?」
「そうよ」
「なんだかなあ」
早瀬は首を横に振った。
「いたるところに黒百合の花があるってどうなんだろ。ばればれじゃないかな。相手が気付かずに手に取らないといけないのに」
「言い伝えの、気付かずにって言うのも建前かもしれないわよ。本当は誰が置いたかを気付いていて、相手に気がある場合だけ花を手に取るのかも」
「なるほどね。でもね、黒百合の花をあちこちに置くと言うのはあんまりなさそうなんだよ。黒百合の花は独特な香りがある。悪臭と言う人もいるくらいだ」
「そうなの?」
「ああ、花は花粉を運ぶ虫を呼ぶために香りを放つ。黒百合の場合、花粉を運ぶのは蝿なんだ。蝿が寄ってくるような香り、いや、においと言うことだね」
「じゃあ、違うのかしら」
瑠美は頬杖をついた。
「じゃあね」
瑠美は顔を上げて早瀬を見つめた。その目はきらきらと輝いている。
「三週間前から、彼女の家にあるものが存在している。それは他人には知られてはいけないもので、蝿が寄って来るにおいをたてているの。その存在を隠すために、蝿が集まるのを黒百合のせいにして……」
「うーん」
早瀬は顔をしかめた。
「お客さんを悪人にしようとしてないか。あの人はそんなことをしそうには……」
「何よ」
早瀬の反応に瑠美も口を尖らせた。
「どうしたのよ、かばっちゃって。よっぽどきれいな人なのかしら」
「いや、とびぬけた美人とかではないよ。ただ、なんて言うのかな。大勢の中にいても一目でどこにいるかがわかると言うか、目が吸い寄せられてしまうと言うか……」
「なんかとっても厭な感じなんだけど。もしかしてその人に気があるんじゃないの?」
「そんなことはないよ。いいお客さんではあるけれど、好意なんて持っていない。瑠美の方が十倍も百倍も大切だ」
「そう……、ならいいけど」
瑠美も矛を収めた。二人の話題は別のものになり、黒百合の客の話が出てくることはなかった。
早瀬が黒百合の客の秘密を知るのは別の日の話になる。
数日後、早瀬は喫茶店に贈答品の胡蝶蘭を届けた。マスターの指示でカウンターに飾り、花の向きの微調整をする。ふと、背中に視線を感じ振り向くと、窓際の席に黒百合の女性の姿があった。独りで紅茶を飲んでいる。カップを小さく上げて合図して来たので、あわてて会釈する。
胡蝶蘭のセットが終わり、マスターに確認してもらって配達は完了した。早瀬は、引き上げる前に黒百合の女性のところへ挨拶に寄る。
「いつもお買い上げありがとうございます。」
「ご苦労さまです。配達もあなたがやっているの?」
「はい。通常は贈答品だけですけど、お客様のようなお得意様でしたら、言っていただけたらお宅までお花も届けさせていただきます」
「そうなの……。考えてみようかしら」
「ありがとうございます。いつでもお申し付けください」
「その時はよろしくね。そうだ、ちょっといいかしら」
「何でしょう?」
「花の扱い方で教えてもらいたいことがあるの。私の仕事場はすぐ近くなんだけど、よかったらちょっと来てもらえないかしら」
女性の言葉に早瀬は考えた。今日の配達はこの喫茶店で終わりだし、店には店長が詰めている。少しくらい遅れても問題ないだろう。
「全然大丈夫です。お供させていただきます」
「じゃあ、お願いします」
女性はすぐに席を立ち、早瀬は彼女に従った。
彼女の仕事場はすぐ近くということだった。早瀬は配達用のバイクを押して彼女について行く。
ほどなくして着いたのは住宅街にあるコンクリート造りの白い建物だった。鉄柵で囲まれた敷地の中に建っている。平屋構造で、入口をはさんで右側は白い壁に小さな窓のある形状で、左側は全面ガラス窓の壁面が扇形に張り出していて内側にカーテンが張り巡らされていた。会社の建物と言うより、開放的な外観の独自設計住宅独自設計住宅と言った感じだ。
「ここが私のアトリエなの」
女性は門扉を開けながら話した。
「立花理沙よ。ようやく絵で食べて行けるようになったわ」
早瀬はその名前をどこかで聞いた覚えがあった。けっこう有名な画家さんなのかもしれないと思う。
「さあ、入ってちょうだい」
「お邪魔します」
早瀬は彼女に続いて建物の入口を通った。玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて廊下を進む。
「ここが制作室よ」
左側のドアをはいると二十畳ほどの大きな部屋だった。天井は高く、窓側が曲面になった扇形をしている。中央に三十センチほどの高さのステージがあり、部屋のあちこちにイーゼルに掛けられた絵画が置かれていた。
部屋に足を踏み入れると独特の香りが鼻をつく。見ると、部屋の中の作業テーブルや棚、収納器具の上など、いたるところに花瓶が並べられ、黒百合が生けられていた
「お買い上げいただいた黒百合ですね」
「ええ、水揚げして生けているのだけど、これで大丈夫か見てもらいたいの」
「わかりました」
「とりあえず、コーヒーを淹れるわね。そこのテーブルの椅子におかけになっていて」
「はい」
女性が部屋を出て行った後、早瀬は部屋の中の絵を見て回った。パステル調の色彩で描かれた女性の群像が多かった。薄物をまとった姿は女神のように見えた。足元には薔薇や百合の花が描かれている。
「お待たせ」
女性がコーヒーカップを載せたトレイを持って戻ってきたので、一緒にテーブルに着いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
早瀬はコーヒーを一口飲み、女性の背後にある絵に視線を向けた後、女性に訊ねた。
「もしかして、絵に描き入れる花の題材として黒百合をお買いになったのですか?」
女性は顔を曇らせた。
「黒百合をモチーフにする気にはなれないわ。笑われるかもしれないけど、私にとっては精一杯の勇気だったの。伝わらなかったのは口惜しかったわ。その気持ちは今も変わらない」
態度の急変に早瀬はとまどった。何か地雷を踏んでしまったらしい。あわてて言い繕う。
「ごめんなさい。この部屋の中にあったので思い違いをしてしまいました。ご気分を害されたのでしたら謝ります」
早瀬の言葉に、女性は気持ちを落ち着かせたようだった。
「あなたが悪いのではないわ。だから、謝ったりなんかしないでください。それより、この部屋の黒百合を見ていただけませんか。自己流で生けているのですけど、これでいいかどうか」
「わかりました」
早瀬はほっとした思いで立ち上がった。部屋の中のあちこちに行けられた黒百合を見て回る。どの花も萎れた様子はなく、水揚げや水の交換はきちんと行われているようだった。
窓際のライティングテーブルに近づいた時、一輪の黒百合が白いテーブルクロスの上に置かれているのに気付く。他の黒百合は花瓶に生けられているのに、どうしてこの一輪だけ……、不思議に思いながらその黒百合を手に取った時、早瀬の記憶の奥底から浮かび上がってきたものがあった。
ずっと昔、同じような体験をした。窓際のライティングテーブル、白いテーブルクロスの上に置かれた黒百合、自分はそれを手に取った。そして、自分のそばに長い髪と切れ長の目の少女の姿があった。
その時には黒百合の言い伝えは知らなかった。また、少年の傲慢さで周りの人の気持ちなど気にも留めなかった自分は、黒百合の意味に気付かなかったのだ。
早瀬はゆっくりと振り向く。すぐ後ろで黒百合の女性、理沙がじっと彼を見つめていた。早瀬は、彼女が三週間、黒百合を買い続けたのはこの一瞬のためであったことを悟った。
「思い出していただけたのですね」
理沙は静かに語りかける。
「あ、ああ」
「二か月前、お店の前で働いている姿を見た時、私にはすぐにあなただとわかりました。でも、あなたが私を覚えてくれているかどうかはわからなかったので、距離を取って様子を見たの。さりげなく話しかけても気付かないようだったので、名乗るのはやめようと思った。でも、毎朝、楽しそうに働いているあなたを見ているうちに気持ちが変わった。あの時、何があったかを思い出してもらえないか試すことは許されるのでないかと思ったの」
「それで黒百合を買い続け、今日ここに招き入れたということなのか」
「ええ」
「あの時のことは思い出したよ。でも、その時は意味に気付かなかった。それが君を傷つけたのなら申し訳ないと思う」
「さっき、言ったでしょ。あなたが悪いのではないから、謝ったりなんかしないでって」
「じゃあ、どうすれば……」
「過ぎてしまった歳月をやり直すことはできないわ。でも、新たな時を刻んでいくことはできる。あの時からお互いに変わってしまった。ここから一歩ずつでも進んで行ければ……。まず、お花屋さんと画家のお客としてというのはどうかしら。黒百合だけでなく、他のお花の取り扱い方を教えてもらい、時には花のお世話を手伝ってもらう。蕾がちゃんと花開き、咲いた花が萎れることがないように」
「できることからでいいのであれば」
「じゃあ、決まりね。よろしくお願いします」
新たに紡がれ始めた歳月、その先に待つものが何かは神のみが知るところだった。
終わり
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