非-我について

10/15
前へ
/15ページ
次へ
誰もいない待合室を横切り、自販機で缶コーヒーを買って一番大きいソファに座った。早朝の待合室はとても静かで、居心地が良かった。窓からは朝の陽光が差し込んでいて、外には近くの高校に通う生徒の一団が登校しているのが見えた。鞄を振り回してはしゃぐ者たちや、歩きながら参考書を開く生徒、ラケットの入った黒いケースを肩にかけている者や、その間を縫うようにジャージ姿で外周のランニングをしている朝練の生徒など、様々な学生が歩いていた。僕は彼らが別の世界で生きている人間であるかのように眺めていた。なんて不思議なんだろう。僕と彼らの世界は全く違っているのに、確かな同時性を持ってここに「在る」。 それだけではない。いま、世界中で一人一人の人間がいまの一瞬を生きている。こんな当たり前の事実がとても不思議だった。ベッドで毛布にくるまりながらママにお休みのキスをせがんでいる子供、盛り上がって砂浜に打ち寄せる波を見て満足げに笑うサーファー、武装したならず者どもに村を占拠され、家を燃やされたり、自分の妻や娘がレイプされているのを見せられている男、おつとめとおしゃべりのために教会へ向かう主婦たち、知的障害のために家に閉じ込められ、ぶくぶくと醜く太って白い肉の山と化した娘を介護する母親、人間の尊厳を守るために戦うと高らかに演説して己の使命に燃える政治家そして妻のお産が無事に祈るようにと願っている僕、全ては真実であり、同時に起こっていることなのだ。 僕は左手の薬指にはめている指輪を見た。一本五万円のもので、それほど高いわけではない。いまや手垢や汚れで当初の輝きも失われてしまっていた。にもかかわらず、いま、指輪は美しい光をたたえていた。それはかつて見たことのない輝きで僕の魂の内奥まで照らし出した。指輪から発せられているように見える光の奥に何かがあると直感的に分かったので、僕は目を凝らし、「それ」を判別しようとした。「原子の鼓動」。それが最初の印象だった。「それ」は強力に僕の心に作用し、鼓動が高鳴って、僕の心臓は破れそうになるほど早く鼓動した。息切れ、目眩、僕は「それ」をさらに分析しようと試みたが、突如その輝きは失せ、指輪はいつも通り、陽の光を受けて鈍く、まばゆく輝いていた。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加