非-我について

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しのぶが死んだ日は、秋の訪れを予感させる冷たい風が吹きはじめたころだった。僕はたまたま仕事が休みだったので、お産に立ち会うことができた。 妻は窓のない、清潔で綺麗な四角い間取りの部屋に入っていた。四つの白い壁のうちの一つは一面が引き戸になっていて、試しにそこを開けてみると、おそらく分娩やその他の処置に使うであろう様々な機械や器具が整頓された状態で置かれていた。そこはLDRと呼ばれる部屋で、陣痛が始まってから分娩、回復が全てできる部屋で、陣痛の間、身を横たえていたベッドはいざ分娩がはじまると瞬く間に分娩台に変身するすばらしい設備だ。妊婦は激しい陣痛に耐えながら、その身を引きずって分娩室に移動する必要がないのである。 僕がその部屋に入ると、妻はすでにベッドで横になっていた。まだ陣痛の間隔が長く穏やかだったので、彼女はいつも通りの優しい笑顔で僕を迎えてくれた。「来てくれてありがとう」と言った彼女の手には以前に貸した『ハックルベリー・フィンの冒険』があった。 「どのくらい読んだ」と僕が訊くと、彼女は「半分くらい」と答えた。 「いまハックが詐欺師たちから逃げだせたところなの」 「またすぐに捕まるよ」と僕が言うと、妻は「え、そうなの!」と驚いた。 「その本を面白いと思ってくれるなら、『トム・ソーヤーの冒険』も読んでみるといい。まあ本来の順序は逆なんだが、偉大な作品にはそんなこと関係ない。本当に面白い小説はどこからどう読んだって面白いものだ。夏目漱石も『草枕』で同じことを言っている」 「あなたがそう言うなら『草枕』も一度読んでみたいわね」
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