非-我について

8/15
前へ
/15ページ
次へ
僕は痛みに耐える詩子を見ながら『アンナ・カレーニナ』のキティのお産の場面を思い出していた。生命の神秘に果敢に踏み込んでいったトルストイの筆致は完璧だった。出産における苦痛と絶望を描きつつ、その場を支配する聖性を見事に表現していた。僕はそういった聖性がいまこの場にあるだろうか、と思った。19世紀のお産は現代のそれに比べて命がけに違いなかったというのは想像に難くない。その頃に比べて出産はより安全なものになった。こと医療の整った現代の日本においてはなおさらであろう。そう考えると、いま僕が目にしている詩子のお産にはそいった美学が欠けていると感じた。身勝手な愛の果てに一つの命を産む、これほど罪深い行いをするのに見合う代償は、まさしく同じ命を賭けてこそ贖えるというものではないか。が、別に今の出産現場の形態を非難するつもりは毛頭なかった。世界はここに「在る」。それは必然によって成されたことだ。それに歯向かい、認めようとしないことこそ神への冒涜であろう。僕が成すことができるのは、何も成さないこと、この世界に変化をもたらさないこと、善も悪も、美しいものも醜いものも、全てをあるがままに受け容れることだ。 陣痛はどんどん激しく、長くなっていった。陣痛の間、詩子は何も喋ることができず、ただ呻いて身をよじらせるだけだった。助産師が「星尾さん頑張って」と言いながら彼女の背中をさすったり、体位を変えて楽な姿勢をとらせようとしていた。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加