非-我について

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夜が明けた。現在は朝の七時だ。詩子の破水があったのは昨日の夜二時だから、それから二十八時間経ったことになる。それでも胎児はまだ頭の先をわずかに子宮口から覗かせているだけだった。初産だから時間がかかるというのは聞いていたが、まさかこれほど長いとは思わなかった。医者の見解によると、まだあと半日はかかるだろうとのことだった。今でも飄風に運ばれる亡霊のように苦しんでいる彼女が、果たして耐えられるだろうかと僕は心配になったが、別の問題が浮上した。検査の結果、子宮内感染の可能性があると分かったのだ。 「このままでは、母子ともに後遺症がでる恐れがありますので、帝王切開に切り替えることをお勧めします」と医者が言った。 「リスクはどれくらいですか」と僕が訊くと、その女医は数枚の書類を取り出し、僕に見せた。 「こちらは輸血に関する同意書です。お腹を切ることになるので大きな出血の恐れがあります。しかし極めてリスクは低いので輸血の必要はないかと思います。少なくとも、このまま自然分娩を続行するよりははるかに良いです」 僕は詩子に女医から聞いたことを説明した。今すぐに腹を開いた方がいいと。痛みに呻く彼女が僕の話を最後まで理解できたかどうかは分からなかったが、苦しそうに息を切らしながら、「本当は自然分娩で産んであげたかったけど、仕方がないよね」と言ってくれた。それが最後に聞いた彼女の言葉だった。同意書には代わりに僕がサインした。 詩子はすぐさまストレッチャーに乗せられて手術室へ移動となった。医師が忙しそうに電話をかけて手術室と必要なスタッフを手配し、確認が取れると詩子は慌ただしく運び出されていった。しばらくは僕もついていったが、手術室のあるエリアの扉の前で止められてしまい、それ以上ついていくことはできなかった。僕と詩子の間で透明な扉がしまり、彼女はガラガラと音を立てながら向こうの廊下の曲がり角に消えていった。「分娩が終わるまでは待合室でお待ちください」と言われたのでそこで待つことにした。時間は四十分程だと助産師が言っていたので、八時半には終わるだろう。
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