三話

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三話

 しん、と静まり返った空気を、鼻から吸って口で吐く。丁寧な呼吸をしなくても、平常心は保たれていた。だからいっそ不味い。さっきまで応援や野次で騒ぎながら行われていた授業が、俺の番が来た途端にこれだ。興味を無くした生徒も、横目で試合を覗き見ている生徒も、一様に押し黙っている。無関心と好奇心が生み出す静寂が、いつもに増して鬱陶しい。それぐらいの気分が、心の持ちようが、逆に俺の平常心となっていた。  剣を構えた時の焦りや恐怖、プレッシャーや小さなイラつき。無にならないものは、押し殺すものじゃない。それを頭で理解できたとき、身体が反応で答えるようになる。そういう意味では、相手と場面は関係ない。  詭弁か真理か、剣術指南のジジイの教え。あの妖怪の元来の強さを鑑みれば、どう考えても前者だが、どこかで納得している自分もいる。 「よし。両者、開始線に付け」  号令に従って一歩進み、両膝を折って少し開く。身体の中心を感じ取りながら、土台になる足の親指を地面に噛ませる。精製した木刀を中段に構えてから、伸ばした背筋に沿って真っ直ぐ立つ。相手の頭の位置を、周辺視で捉えた。その背後にある大木も、距離感を測るのに必要な背景だ。 「始め!」  衝撃を極限まで無効化させる魔力結界が、試合場を素早く包む。相手を殺しかねない実践形式を、授業として可能にする装置で、学園経営に必須の大掛かりなマナギミック。家の庭にも欲しいが、そうもいかない。マナを効率良く取り込める学園内、その中でも限られた演習場でしか発現できないのだ。  半円の形に広がった青白い幕は安定すると、外側が壁になって、生命体の出入りを制御する。教師が試合の終わりを認めるまで、解除はできない仕組みだ。  開始線を半歩跨いだ。意識して動く事で足の運びと身体の中心を、再び確認する。相手の観察はその次でいい。木刀の重さもちょうど良く、余計な力は入っていない。少し顎が下がっているか。  対戦する同級生は、精度の高い片手剣とフットワークを武器に、勝利数を稼いできた、なかなかの手練れだ。対峙してみてよくわかる。目も反応も判断も良い本格派だ。この国の剣技を修習しているのだろう。俺と違って魔法も上手い。半身の構えからすっと伸びた剣先には、淀みの無い魔力が込められていて、相当な切れ味と疾る剣速を、容易に想像させた。  だが、それだけだ。試合に勝った方が強い、という話なら、奴の強さは俺に及ばない。  互いに精製した剣の長さ、射程は俺に分がある。相手は右に左に細かく動き、小さなフェイントを織り交ぜ、隙を伺おうとする。俺はその一つ一つを、丁寧に対処した。相手の動作を正面に捉え、中段の構えを崩さない。最小限、ここではつまり、足の運びと視線だけで、相手の攻めを封殺する作業を繰り返した。  あの精度の高い優等生の剣を、この木刀で受けたら、たぶん一発と持たずに、折れるか切れる。その場合はもちろん、魔法剣を失った俺の負けになる。だから、相手の初太刀を避ける必要がある。  ……あるいは、その出鼻を読んで挫くかだ。  常に相手を正面に添え、動きを見続けた。そうしていると、相手の考えや、初動が読めるときがある。思い込みや格下相手だからとか、そういういい加減な現象ではない。れっきとした事実なのだ。俺が教わる剣術にはそれがあって、この国の剣技にはまだそれが無い。代わりに、由緒正しき魔法の歴史がある。そこに優劣の差は無い。  相手の視線が時折下がる。その先に集中力が注がれている。俺の足捌きが『横の動作に適していない』と映ったのだろう。俺はそれを、剣を合わせない対峙の中で察していた。ならば来るのは、右下方に素早く踏み込んでの薙ぎ払い。  どこでそれが来るかも分かっていた。相手の右引き足に力が入った瞬間だ。  結果、難しいタイミングでもなかった。先の先、俺が前に出て型通りの払い抜けをする。相手の胴を打った両手に確かな手応えが残り、癖になっている残心を取っていた。 「それまで!勝者、アヤセ・アビコ!」  ざわめきの中、開始線に戻って頭を下げる。相手の同級生の顔は見ない。木刀を消して、大気に溶けて行く青白い幕を出た。新緑の葉を目一杯付けた大木が、初夏の訪れを振り撒いている。  手ぶらになると、途端に虫の居所が悪くなった。  なんで修道着まできちんと着て、朝一の授業なんか受けてんだ俺は。  ベンチに座っているクラスメイトと目が合うと、何故かソイツは席を離れた。仕方がないので座る。  代わりに、審判を勤めた体育科の教師、トラッドが寄ってきた。 「これで衛士科の全勝はアビコだけか……。  お前、やっぱ部活やれよ。ウチには市内の大会に出る剣術部もあるんだぞ」  返事をするのも馬鹿らしい。俺はシカトして修道着の上着を脱いだ。  授業、とっとと終わらないだろうか。校舎の大時計を見ると、あと五分もあった。ここで他の奴の試合でも見ていろというのか。退屈過ぎる。 「ああ、でもこの頭じゃ公式戦は無理か。髪染めてみろよ?きっと女子にもモテるぞ?」  なんでわざわざ地毛を染めなくちゃ……。 「げっ」 「ん、なんだ?その気があるなら、俺が顧問に掛け合ってやっても……」 「……ちげーよ。興味ないから、他のセンセーに余計な事言うなよ?」  大時計の真横に俺のクラスがある。気付くと、窓から半分だけ顔を覗かせたナツスミレが、小さく手を振っているのが見えた。  相変わらず恐ろしい真似をする奴だ。見えなかった振りでやり過ごした。 「凄いよね!最後に戦ったウエンツくんは、一年生の頃からレギュラーなんだよ!それをほとんど何もさせないで、あっさり勝っちゃうんだもん!」 「うるせー」 「なんかこう、独特だよね、アヤセくんの構えって!  私、全然詳しくないんだけど、違うなっていうのは分かるよ!ピタッと止まって、足元もバタバタしないから、相手が焦ってるように見えるの!」  ナツスミレは構えを真似しているのか、腹の前で透明の剣を握った。持ち手が逆。 「試合が始まる前に、しゃがんで待ってるやつも、なんかカッコいいよね。すっ……て、周りの空気ごと静かになる感じがさ。  あれは何かのルーティーンなの?高名な魔導士は、いくつもルーティーンを持っていて、それを掛け合わせる事で効果を高めるって……」  一人で喋っている分には、しばらく放っておいても大丈夫だ。が、質問に反応しないと、コイツは途端に塞ぎ混む。 「……あれは蹲踞っつって。集中する為の型みたいなもんだから……。まあ、ルーティーンでもいいか」 「ソンキョ……?」  聞き慣れない単語に首を傾げるナツスミレ。俺も正確な説明はできない。剣を習い始めたガキの頃から染み付いているもので、そういうものだとしか言いようがない。  昼休みの屋上。階下からは見えない貯水槽の上。雨が降っていなければ、俺は大抵、ここで過ごしているのだが、最近はこのシャバ子も後からやってくる。教室では大人しくしている癖に、ここに来るとよく喋るもんだから、おかげで昼寝もできやしない。……だからといって、無下に扱い、拒絶しようものなら、また泣かれるかもしれない。その恐怖に俺は勝てなかった。  一応、俺といるところを周りに見られるのは、良くないと思っているらしい。こいつには、教室に同じレベルのシャバい友達がちゃんといる。休み時間はそいつらと端っこで、ヒエラルキーの一端を担っている。外来種との接点はきちんと隠して、実りある日常を消化しているのだ。  それは、魔導の良家として産まれた、世間体や体裁を気にしての事だろう。馴れ合う気のない俺を、変に巻き込むような真似はしない。この国の貴族にありがちな博愛精神を発揮させて、意地になられても困るからそれはいい。女子特有の切り替えの速さとか、割り切りの上手さには、感心するばかりだ。 「あの剣術には、ヒノモトの文化や歴史の背景を思わせるね。礼節を重んじる佇まいというか、そういうの」  基本的に鬱陶しいのだが、たまに笑える事を言う。 「ふ。知ったような口を利くじゃねえか」 「そうだよ。ちゃんと勉強してるからね。  この間、古本屋でまたヒノモトの本を見つけたんだ。難しくて全部は読めなかったけど……。あ、でも。アヤセくんが書いてくれた、ヒラガナは少し分かるようになったの」  熱心なことだ。何が面白くて外国語の本に金を出すのか。本当に恐れ入る。 「『いみじうあわれなり』とか『かたはらいたし』とか……」  古文だ。俺は寝返りを打って、笑いを隠した。 「『かたはらいたし』ってどういう意味?」 「あー、そうだな……。  『しょうもねえ野郎だ』って意味だな」 「へえ。悪口だったんだ。あまり使わない方がいいね」  大真面目にそんな事を言い出した。行儀の良い奴。 「……昼飯、食わなくていいのか?」 「あっ!」  ナツスミレは思い出したように、弁当の包みに手を伸ばした。これでコイツはヒノモトの言語を、微妙に間違った形でインプットし、俺は少し寝れる。穏やかな平和が保たれた。  ブルーウィンアカデミーの屋上は、以前トレニアが桁外れの魔法をぶっ放す事件を起こして以来、昼休みでも立ち入る者が減った。俺としては都合がいい。その時破壊された制御搭が新しくなって、耳障りな駆動音が抑えられたのも良い事だ。  俺が二年に進級して、なんとなくサボる場所に定めたまでは良かった。が、程なくして上級生に絡まれた。どこの学園でも、屋上は不良の溜まり場と相場が決まっている。制御塔は屋上に建てられる事が多いし、近い方が効果を発揮しやすい。魔法の影響を受けないエリアは、出来損ないにとっての安らげる場所になる。  一度倒せば次の日も来る。来なくなったと思ったら、そいつよりちょっと強くて悪い奴が来る。家が金持ちだと、育つ奴も不遜な輩が多い。  売られた喧嘩を買うのは悪くないと思っているので、俺も少し意地になった。何度もそういった輩を撃退し続けた結果、今は凪。このまま鍵でも作って独占するのも、不良っぽくて良いかもしれない。でもそうすると、コイツも追い出す事になるのか?  小さな弁当箱をやっと半分。ずいぶん綺麗に食べるもんだ。目が合うと、箸を置いて制御搭を指差した。 「あの新しくなった制御搭。トレちゃんが修理費出したんだよ。匿名で『制御搭を壊した者です』って手紙と小切手を、理事会に送り付けたみたい。隠し財産を切り崩したんだって」 「ほー。でも、事実だし。ざまあねえな」  むしろ隠し財産とやらを、どこでどのように保管しているのかが気になった。まあアイツなら、デタラメな魔法をいくつも使えるんだろうし、何でもアリなんだろうけど。  すると、ナツスミレは自分のこめかみを指差して言った。 「『アヤセくんも負担しますか?元の魔法はあの黒檀の剣ですし』」  この仕草は、アイツが会話に交ざってくるときのサインだ。いちいち「~ってトレちゃんがー」というのが鬱陶しくて、そうするよう決めた。 「やなこった。学校はお前のモンなんだから、お前が金を出すのは当然だ」  ナツスミレはサインを続けたまま、今度は唐突に吹き出した。  奴が何て言ったのか、簡単に想像できた。どうせ『かたはらいたし』だろう。  俺が目を閉じても、ナツスミレの気配はそこにある。何が楽しいのか、クラスの付き合いもほったらかし、昼休みをここで過ごす。  屋上の風の音に混じって、押し殺した笑い声を漏らしている。頭の中の頭のおかしいツレと、何を話しているのやら。 ―私、トレちゃんに新たな肉体を与えてあげたいの。そうして、ちゃんと友達になりたい。最終的には、トランスパレントも破るんだ―  トレニアに肉体を与え、例の魔法を破る、というのがナツスミレの目標らしい。それは二千七百年を生き、精神体としてこの世に留まっている伝説を終わらせるという事だ。  多くの魔法が手品のレベルに衰退したこの世界で、ただの一学生にそんな事が出来るのだろうか。甚だ疑問だが、俺が口を出すわけもなく、季節はこうして過ぎていく。  当人達も呑気なものだ。学校ではナツスミレの相手をして、夜のバイト先では、たまにトレニアが顔を出す。俺といる所を見られてもいいのか?と訊いてみても、とぼけて首を傾げるシャバ子。アビコ家当主の父親よりも、勉強しろと小言を言う伝説。昼と夜で、同じ顔の相手をする身にもなってみればいい。それなりにうんざりする。  灰色クラン、ジキタリスの連中にもいいかげん慣れたようで、特別魔法係監修は、気紛れにレイアースの魔法を手伝った。例の報告会で、広域指定極道ギルド·フォックスグローブを束ねる会長は、魔法でこさえた花束に、たいそう喜んだそうだ。これでまた、ジキタリスは同一線上にあるクランの妬み嫉みを新たに買い、それと同時にシノギも増えたという。俺に回ってくるのは、相変わらずのお使いみたいなバイトばかりだが。  意識が眠りに向かう頃。俺の思考も逸れていく。  一人の体の二人を相手をしていて、不思議に思う事も多くあった。そもそもがおとぎ話に過ぎなかった伝説の魔女だ。二人の邂逅も経緯も、詳しく聞いていなければ、突拍子も無さすぎて、どれから訊いたものか分かったもんじゃない。  これ以上関わってもいいものか?何かを知ったとして、俺に何か良いことでもあるのか?女子の思考ほど読めないものも無い。あれはたぶん、恐ろしいものなのだ。ああ。考えるをやめて、眠りたい。  そういえば何だろう……。何か疑問があったような気がする……。コイツらは不思議が過ぎていて、理解できない事などいくらでもあるけれど……。 「ごめん、アヤセくん。起きて……」  肩を揺すられて、意識が戻った。深刻なツラを浮かべたナツスミレの向こうに、能天気な空模様が広がっている。 「誰か来たと思ったら、ちょっと険悪な雰囲気で……」  貯水槽の上から階下を指差している。俺は固くなった瞼を軽く擦って、覗き込んだ。  張り詰めた空気の中、数人の生徒が一人を半円で囲んでいた。何か喋っているようだが、部分的にしか聞き取れない。階下に繋がるドアの前にも一人いて、背中を預けている。場面の想像は容易い。 「ヤキ入れかリンチだな」 「やきいれ?」  たまに出てしまうヒノモトの俗語が通用しない時がある。まあ、リンチの方が伝わっていれば充分だ。 「顔出すな。見つからないように奥にいってろ。あっちだ」 「う、うん」  ナツスミレは低い態勢のまま、そろそろと貯水槽の端まで移動した。下からは死角になっているので、そこまで下がれば見えない。  俺は別に見つかってもいい。なので、改めて見物する事にした。  見張りを含めて一対七。どう見ても、半円の中心にいる奴をシメるという雰囲気だが、そいつは憎たらしい事に、多勢に怯んだ様子を見せなかった。正面の奴に睨みを利かせ、傍若無人といった佇まいを崩さない。手間が掛かりそうな、やや内巻きロングのヘアスタイルも、なかなか気合いが入っている。背も高く、肩幅も広い。『ゴツい』はこの国でも通じるのだろうか。  見覚えが無いと思ったら、案の定。学年を示すネクタイの色はバラバラだが、襟章は全員工学科の臙脂色だ。わさわざ工学棟を出て、ここまで来たらしい。昼休みを喧嘩に充てるとは、連中の行儀の良さが伺える。  さて、コイツらの間にどういう取り決めがあったのだろう。七対一か、七人抜きか。どちらにせよ、一人に対してこれだけ揃えたということは、中心の長髪は相当強いはずだ。数の上での判官贔屓が働いて、奴が勝てば爽快か。貯水槽の縁に膝を立てて、上から見物しやすい特等席に収まる。緊迫した空気の中、会話が屋上の風に運ばれてきた。 「わざわざ本校舎まで来てやったんだ。つまんねえ用事な訳ねえよな?  やっとミゲルに付く気になったのか?」  半円を作っている一人が長髪に問いかけた。が、奴は馬鹿にするような笑い声を上げてから言った。 「そんなわけねえだろ。俺に関わるなって、半年前から言ってる」 「ナメてんのか?俺ら呼び出したって、テメーは手を出せない。学校、クビになりたいのか?」  イキがった奴が一人、前に出る。長髪はまだ余裕の表情を崩さない。 「しょうがねえだろ。今日の放課後にも、お前らが商会の方にちょっかい出すって聞いちまったからな。  そんな事はさせねえ。一歩も動けなくしてやるよ」 「ああっ!?」  早く始まらねえかな。 「ほら、かかってこいよ。末端の雑魚共。  ミゲルのアホも、こんな展開を望んでたんだろ?ダセエけど釣られてやるぜ」 「強がんなって……。お前が妥協すれば、商会になんか行かないし、全部丸く収まるんだよ。とっとと……」  拳が骨にめり込むような鈍い音。気持ち良く喋っている途中で、ソイツは跳ねてから、数回転がって止まった。 「ガタガタうっせえんだよ!!昼休み終わっちまうだろうが!!俺の学生生活最後の昼休みだぞ!!」  長髪が怒鳴り散らしたのを合図にして、残りの奴らが一斉に襲いかかった。最初の奴は不意討ち気味にノックアウトできたが、見張りの奴も輪に加わって、結局七対一での開戦だ。  さて、どこまで粘れるか。理由も因縁も知らない他人のケンカは、存外興味深い。四方からの怒号と蹴り、長髪が頭を守りながら、一人を掴んで集中して攻撃する。これがまた頑丈な奴で、足を蹴られても、体当たりを喰らっても、動きがなかなか鈍らない。掴んだ奴にはきっちりダメージを残し、着いて離れてが目まぐるしい戦況になる。これは見物だ。ケンカの場数は多い俺でも、七対一なんてケースはどうしたって負けてきた。ここから一人か二人でも削れれば、上等なモンだとは思うが……。 「オラァ!!」 「っの野郎!!」 「足狙え!……ぐはっ!」  長髪が相当強い事はすぐにわかった。何かの格闘技や護衛術を駆使するでもなく、滅茶苦茶に飛んでくる拳と蹴りを、随所で的確に捌き、掴み、返り討ちにしている。囲んでいる奴らの方が鼻血を流し、息を切らし始めていた。 「なんだありゃ?クッソ強いな。うおっ。今の見えてたのかよ……」  そのうちに、一人が派手に殴り飛ばされて、仰向けにダウン。もう一人は足を引きずって、輪から逃げ出し、うずくまって動かなくなった。  当然ながら、乱戦の中で何発か貰っている。乱れた髪から覗く右目は、瞼が大きく腫れ上がって、破けた制服の肩口からは、真っ赤な痣が浮き出ていた。それでも、四方を睨み付ける目は、少しも胆力を失っていない。 「とんでもねえスタミナしてやがんな。何モンだよアイツ」 「ラフィット・キアミールくんっていうんだって」 「あん?」  声に振り向くと、ナツスミレが頭を低くしたまま言った。 「ここ数年、荒れに荒れてるヴルーウィン工学科でも、一番強いんだって。……うん。ケンカが。  相当恐れられてるみたいで、近付く人もいないみたい。一年生の時に停学歴があるけど、進級してからの授業はちゃんと出てる……らしいよ」  サインの方を省略して、聞いた話という口振り。トレニアが目立つ不良生徒を知っているのは、別に不思議でもないが。 「ふん。坊っちゃんだらけの衛士科と違って、あっちはトッポいのが多いからな」 「とっぽい?」 「いや、それよりお前。引っ込んでろって」  手を振って、追い払う仕草を向ける。が、ナツスミレは、瞬きを数回してから、首を振った。 「大ケガする人が出たら、治してあげないと……」 「なんでだよ。アイツらが勝手に揉めてるだけじゃねえか。ほっときゃ良いんだよ」 「でも、ケンカしそうってわかってたのに、止めなかったから……。それぐらいはしないと……」  真面目くさったツラで、そんな戯れ言を吐いてみせる。また貴族特有の博愛精神だろうか。それなら俺もいちいち口を挟まない。ケンカの行方に視線を戻した。  長髪……ラフィットとかいう奴も、相当効いているように見えたが、相手も残り三人になっていた。もうこうなれば、五分以上と言って良いだろう。本当に大したもんだ。野次馬の立場でラフィットに喝采を送っていたところに、戦況の変化が起きた。 「あっ!」 「……チッ」  短く、ちゃちな造りだが、刃物を出した奴がいた。ガラが悪いとか、そういう話で済まない事態になっている。ラフィットの奴は、左手が不自然に下がっている状態だ。 「おう。ちっとは後悔してるか?そんなにしぶといのも考えものだぜ。弾みで刺されても仕方ねえよな?」  手の中でナイフが回る。ラフィットは、その鈍い光に目を奪われていた。が、次の瞬間には余裕を見せていた。 「雑魚は何やったって雑魚だよ。弾みで死んでもまた雑魚に産まれろよ?」 「テメー!」  刃物出した奴煽るなって。 「あ、アヤセくん!」  木刀を精製しようとしたが、上手くいかない。手のひらに集めた魔力が一定量に達すると、感触が不確かになり四散してしまう。制御塔か。 「……お前、ぜってー降りんなよ?」  俺は貯水槽から飛び降りて、奴らの間に割って入った。唐突な乱入者に面食らったようだが、頭に血が上った馬鹿は、それでも収まらない。 「ああ?衛士科の坊っちゃんか?今は取り込み中だ。そこどけよ!!」  変に口で相手をしてグダグダ間を空けない方がいい。俺はナイフの持ち手を狙って、手刀を振り下ろした。そのまま、落ちたナイフを踏み込んだ足で外側へ払う。 「あっ!」  何度も雑魚と呼ばれた雑魚は、ナイフの行方を目で追っている。反射的にガラ空きの顎に拳を一つ入れた。膝が折れて倒れ込む前に、首根っこを掴む。 「他人んちの屋上でうるせーんだよ。そっちのケンカは、魔材屑の散らかったそっちの校舎でやれ」  こんな感じのタンカで良いだろうか。 「オメー。衛士科のアビコだろ。こっちの二年シメてるっていう外人の」  右目の腫れ上がった男前は、不遜な態度を俺にも向けた。ケンカの直後で興奮気味な声には、冷気を含ませて返した。 「売られたケンカ買ってただけで、別にシメてねーけど?」 「返り血で真っ黒になった木刀持ってるって聞いたぞ」 「そいつは初耳だ」  なかなかハッタリが効いている。でも、それじゃあ本格的なイカレ野郎だ。さっきみたいにナイフでも抜かれない限り、ケンカで木刀を使った事など無い。 「お前はどうなんだ?ラフィット。なんで七対一とかやってんだよ。ウチの屋上で」 「なんだ?理由とか喋った方がいいのか?……て言うか、俺。名乗ったっけ?」 「コイツが知ってた。工学科のヤカラだって」  親指を向けると、ナツスミレはびくりと跳ねて後ずさった。 「ええっと……。その、噂というか……。なんというか……」  ラフィットはその様子を見て、毒気を抜かれたようだ。つまらなそうに呟く。 「別に構いやしねえけど。ちょっとした悪評ぐらい。だいたい合ってるだろうしな」  おとぎ話のドラゴンみたいな暴れ方していたくせに、やけに諦観的だ。 「見た感じ、ケンカのケリも付いたみてえだけど?」  ラフィットはボリュームを抑えた長髪を掻き上げて、他人事のように言った。 「ああ。これで学校は晴れてクビだ。  衛士科のシマで邪魔して悪かったな。短い間だったけど」  そう言えば、そんなやり取りもしていたか。 「まあ、これだけ派手にやればな。それに、前科持ちだって?」 「おお。次に暴力沙汰を起こしたら、退学だってな。反省文より長い念書も書いたよ」  面白い奴。こうして話せば冷静で、皮肉に回すアタマはあるのに、ケンカはデタラメに強い。 「何やらかしたんだよ?ちょっと興味あるぜ」 「あ、アヤセくん……」  俺の純粋な疑問に、ラフィットは腫れ上がった男前を崩した。 「さっきと同じ。俺と同レベルのガキが、商談気取ってクソみてえな話し持ち込んだのを、突っぱねただけさ」  ラフィットの家は、ダリア公国アンディシュダールでも名の通った鍛冶職人の家系だそうだ。七十を過ぎて、引退間近の父親が、調理器具や建築工具の生産、外壁修理などの大工仕事などで、家計を支えている。  魔法工学が発展途上なこの国でも、安価で使い慣れた道具や、生活雑貨の需要は残っている。客層は近所の年配と主婦層だが、ラフィットの親父は誇りを持って仕事に殉じ、信頼を得てきた。俺もナツスミレも工房の名前は知らなかったが、こめかみに指を添えられた魔女は「篤厚な仕事をすると評判です」と簡潔に称した。 「大きな取引になる武器の発注は少ない。こんな時代だし、相手も堅気じゃないケースが多いから。ここ数年は、善良な街の金物屋ってところだ。  でも、親父の若い頃は公国直属の自衛部隊にも、剣を卸していたんだ。条例で金属製武具の大量生産が禁じられるまで、街では一番だったらしい。  酔っぱらうとその話しばっかりしやがる。その時の貯金でやってるクセによ」  衰退した名家か。身に覚えがあって笑えてくるが、親父を尊敬している点が違う。身内びいきに苦笑するラフィットの語りには、それが伺えた。 「その蓄えだって、怪しいもんだ。王国警備の厄介になるようなバカばっかやってたのによ……。  何を思ったのか、安くもないここの入学金出しちまったからな。工房を継ぐって言ったのは、五歳とかそんくらいの時なんだけどな。浮かれやがって……」 「……今は違うの?」  工学科のド不良は、少し躊躇ってから答えた。 「違わない。魔法の道具や知識があれば、ウチみたいな古い工房でも仕事が来る。  しかたねーから、勉強してやるかって……思ったんだ」  金属と鉱石の匂い、溶鉱炉の熱で年中暑い工房で育ったラフィットは、父とその弟子達を背中を見て、職人の家の子として育った。多少は人様に迷惑をかけ、荒んだ時期もあったものの、こうして魔法を学べる学校に進学し、工房を継ぐ為の知識と技術を、ギリギリの成績で修めていた。  初年度に起こしたトラブルは、そんな家業の所以でもあるし、関係を持ったツレのせいでもある。ラフィットはその点に己の非を認めながら、淡々と語りを続けた。 「大抵の悪ガキは武器が好きだ。おとぎ話や戦争で出てくる剣や槍。由緒ある霊木を加工した魔法杖。平和なこの国でも、そいつを振りかざしてイキがりたい。暴力で人の上に立ちたい。誰もがどこかで思っている事だ。  アヤセ。お前だって、不良やってるなら、同年代にナメられたくはないだろう?その気持ちとそんなに変わらない」 「……」 「馬鹿馬鹿しいか?でも、そんなもんだ。愚かだけど、根付いているモンには逆らえないんだ。武器を作っていた家だから、恐ろしさと一緒に、そんな教えも刷り込まれたよ。  まあ、教えられたって意味なんかねえけどな。周りの環境ってモンがある。理解していたつもりでも、悪ガキってのは、やっぱり足りてないんだ」  市内にある一般の公立校に、ミゲル・フォン・ディアブリードとかいう、厄介なガキがいる。ラフィットはソイツに目を付けられた。  金と部下を持て余して、次のオモチャは本物の武器だと思ったのだろう。ラフィットに取り入れば、抗争で使用する武器製作が可能になるかもしれない。その強さと工房のノウハウを得て、さらにデカイ顔が出来る。馬鹿の思考は、かつてエキザカムが抱えていた魔力のように無尽だ。 「一年前のトラブルで、ミゲルとは縁を切ったつもりだった。けど、最近になって、奴はまた俺にコナをかけに来たんだ。金を出すから武器を造って横流ししろってな」 「よ、横流し……。本物の剣とかを……?」  ナツスミレにはショックな単語だったようだ。視線の先を追うと、さっき足で払ったチャチなナイフがあった。育ちの良いシャバ子は放っておいて、先を促す。 「それで?」 「今さら何だと思ったからよ、少し調べてみたんだ。そしたら、奴らのバックに『コルキス』とかいう中規模のクランが付いたみたいなんだ」 「はぁ?そのミゲルとかいう奴は、学生じゃねえのかよ。普通、本職ならそんなの相手にしねえだろ」  バイトとはいえ、ジキタリスに出入りしている身だから、その辺りは空気で解る。グレーだろうが武闘派ギルドだろうが、奴らみたいなプロは、下手に学生を相手にしない。  ラフィットは、腫れた右目に髪が掛かるのか、手で額を押さえながら言った。 「本職じゃねえよ。規模はそこそこだけど、学生クランだ。コルザアカデミーのトップが纏めてる……」 「ああ、ユリウォとかいう……」 「なんだ。知ってるのか。そのユリウォが仕切ってるクランって事で、最近はかなり幅を利かせてるんだ。そいつらの指示なのか、ミゲルが武器を持ち込んで取り入ろうとしてるのかは、わかんねえけど」 「あいつが……」  いつかの路地裏。ガッツリ改造したゴールドロッド社のバイクで、これまた厳ついツレのリードと共に現れ、値踏みするような目で俺を睨んだユリウォ。足元から冷えていくような声と、俺と同じ、不吉な黒髪。 「で。シカト決め込んだ俺に業を煮やして、今度は取引先の方にちょっかい出そうとしてたんだ。ウチの工房が世話になってる正規の集合商会だ。  ほっとけば何を吹き込むかわかったもんじゃない。下手すれば、俺の家は干されるし、ウチに来てる弟子達も路頭に迷う。だから呼び出してボコった。  標的は俺にして、工房には手を出させたくない。時間稼ぎにしかならないかもしれないけど、俺が学校をクビになれば、ミゲルの溜飲も多少は下がるだろ」 「……そうだといいけどな」  甘い目論見だ。……とは言えなかった。  話が途切れ、ラフィットは青アザの引かない顔を、手摺の外に向けた。ここからの景色を見納めるように。昼休みの喧騒は、別世界のように遠い。  理不尽で下らないケンカかもしれないが、誰かを殴れば常識から外れる事になる。規則があるのも分かっているし、その規則に守られている事もまた、理解している。それでも、他にどうすればいいか分からない。  俺達はガキの上に不良なのだ。溜め込んだ憤りを間違った形で吐いて、大人に疎まれ、悪循環に乗る。どこまで巡ればそれが終わるのか……。 「これって……。ラフィットくんが、悪いのかな……」  その疑問は薄っぺらい。が、仕方ないだろう。ナツスミレは育ちが良い。  ラフィットは振り返って鼻で笑った。 「悪いんじゃねえの?ミゲルみてえなのと関わり持ったのも、俺がイキがってたからだし」 「でも、今は将来の為にちゃんと学校に通っているでしょ」 「『学校に通う』なんて、普通のことだ。昔の悪さは消えたりしねえ。百倍善行積んだってな」 「それはそうかもだけど……。なんか納得いかない……」  そこにいつもの気の抜けたツラは無い。憤りではなく、哀しみを浮かべている。ただ、ラフィットは同情を望まないだろう。 「お前が納得いかなくても、前科があって釘刺された上に、七人ノシてんだぞ。コイツはクビだ。  本人も認めてる。あんまり突っついてやるな」  すると、ナツスミレは俺を見上げて言った。 「アヤセくん……。それはちょっと冷たいよ……」 「あぁ?」 「だって……。お父さんの仕事が駄目になっちゃうかもしれなくて……。それで……。学校辞めなくちゃいけないなんて……」  俯き、ゴニョゴニョと言葉を漏らすナツスミレ。  不意に嫌な予感がした。  え……?今日は大丈夫だよな?俺、そんなに間違ってないよな?  しかし、ナツスミレは明らかに何かを充填している。魔力よりも恐ろしいその波動に、俺は鳥肌を立てた。 「せっかく一年頑張ったのに……。家族と家の為に勉強してるのに……」 「待て。落ち着け。お前は正しい。育ちが良いからな」 「それに、最後の人はアヤセくんがぶっ飛ばした……」 「お、おう……。そうだな……。俺も悪かった」  何かおかしいが、とりあえずそう思う事にした。  屋上の風が沈黙の間を抜けていく。涼しくなったのは、冷や汗を掻いたからか。薄紫の小さな頭から、ラフィットに視線を移すと、奴の表情も困惑気味だった。 「おう……。つい流れで話しちまったけど、別に同情はいら……」 「お前、学校辞めたいか?」  ラフィットの言葉を遮ると、奴はさらに困惑した。もう昼休みも残り数分。その内の貴重な十秒を使って待ってやると、ぽつりと漏らした。  それは昼下がりの、のどかな風に消え入りそうな声だった。 「……出来れば辞めたくねえよ。  味方も友達もいねえけど……悪くなかった。……この一年。  成績なんかさっぱりだったけど、意味のあることをしているって……。そういう実感があったのかもな」  薄々感付いてはいたが、意外と真面目な野郎だ。俺の腹もそれで決まった。別にラフィットに肩入れしたところで、デメリットも無い。 「この乱闘を揉み消せばいい。無かった事にして、しらばっくれとけ」 「はぁ?」 「とりあえず立て。伸びてる奴ら集めるぞ。  顔だけでも傷を治せば、ここでケンカがあったことも誤魔化せるだろ」  ひとまず、コイツらの目立つ怪我を消せれば、昼休みの屋上で何があったのか、教師に気付かれる事もない。その辺りは察したようだが、ラフィットは半笑いで訝しんでいる。 「……コイツらが教師にチクったらそれまでじゃねえか」  もっともだが、反論できる。それを俺の代わりにナツスミレが言うとは思わなかったが。 「で、でも……。『七対一で大怪我するほど負けた』って言わなきゃいけないし……」  このチンピラ学生共にも、不良のプライドがある。このシャバ子もなかなか解ってきた。いったい何処の誰の影響かは知らねえけど。 「お前も含めて……。見えるところ、顔の怪我を治す。このシャバ子は治癒魔法が得意だ。後は脅しでも何でも入れて釘刺して、この件は学校の外で片付けろ。それしかない」  そう告げると、ラフィットはまた黙り込んだ。俺の提案を検討しているようだが、辞めたくないなら従うだろう。時間も無いし、さっさと取り掛かった方がいい。  転がってる奴らの首根っこを掴み、階下に繋がる扉の前まで引っ張っぱる。何人か気が付いたが、「治してやるから、この件は他言するな」と、睨みを利かせた。すると奴らは、黙って頷く。ミゲルとか言う奴に、この惨敗報告が出来ないのだろう。  その時、昼休みの終わりを告げる予令が鳴った。 「ナツスミレ。納得いかないなら、お前がなんとかすればいい。見回りが来るまでに終わらせないと、俺らも面倒に巻き込まれるぞ。  それまでに……出来るか?」 「やってみる。でも、一人ずつじゃ私が持たないから……。範囲回復(エリアヒール)かな……」  ナツスミレは頷くと、位置を決めて膝を付いた。目を閉じて集中に入る。  範囲回復(エリアヒール)が通常の治癒魔法より難しいのは当たり前だが、時間も限られたこの状況で、上手くやれるだろうか。なにより、屋上一帯は制御塔の影響下だ。ナツスミレもそれを懸念している。  案の定、それなりの広範囲から集めたマナが、効果を発揮する魔力になる前に、あっさりと散った。魔力の粒子が床に残るだけ、俺よりまともだが……。  邪魔にならないよう、俺はナツスミレの隣で同じ態勢になり、声を潜めて訊いた。 「……アイツなら無理矢理成功させるだろ。手を貸してもらえよ」  伝説と謳われたトレニアの魔力は桁違いだ。俺達が手こずる範囲回復(エリアヒール)も、奴にとっては朝飯前に玄関の新聞を取りに行くようなもの。何より、制御塔の力を越えた魔力量でないと、魔法の発現すら叶わない。  しかし、女子共はこの状況で面倒な事を言い出した。  二度目の発現が同じように失敗し、ナツスミレはこめかみに指を当てる。 「『立場上、私は容認出来ません』」 「は?」 「『どんな理由があっても、暴力行為は罰せられて然るべきです。  スミちゃんが自力でやるというならまあ……。それなら見逃してもいいですが』」  見逃す……だと?  俺はムカついた。いつもの冗談で流す腹立たしさではない。 「テメエ……。偉そうな事言っても、俺には意味ねえぞ。それに、ナツスミレがこんな下らない揉め事に巻き込まれて、懲罰食らってもいいのかよ?」  魔女の返事はない。小さな指がこめかみから離れて、顔の前で組み直される。 「アヤセくん、いいの。こういうこと、トレちゃんには頼めないよ……。私がやらないと……だめ……」 「何でだよ!」 「私は……。トレちゃんに魔法を教わった事もないし、魔法で助けてもらった事もない。出会ってからずっとだよ」 「だったら何だってんだ。それに、この間……」 「教わったり助けてもらったり。それはズルだから。私だけ伝説の恩恵を受けるわけにはいかない。これ、私達のルールなんだ……。破りたくないの……。  私がここの生徒であり、トレちゃんは大事な友達だから……。尚更……ね」  辺りに散らばるマナが、形を成そうと再び集まる。陽射しを受けて瞬いたかと思うと、程なくして無為に四散する。三度目の失敗。ナツスミレの横顔からは、見るからに血の気が引いていた。下手をすれば、先にくたばるのはコイツだ。  けれど……。俺は口を出せなくなって、その横顔をただ見ていた。 「トランスパレントは……。私の力と知識……だけで……破る……」  鬼気迫る、というものをこの目で見ている。  妙な話、さっきの流血沙汰のケンカだって、こんな目をした奴はいなかった。妖怪のように剣が強いジジイとも、裏社会のアウトローとも違う。気合いだとか言って、不良が振りかざすものとは全く違う種類の気概を、この小さな同級生が秘めている。  何がナツスミレを意地にさせるのだろう。精神を削りながら放った言葉の通りだと言えばそれまでだが、それ以上の何かがあるような気がして、俺は立ち竦む事しかできないでいた。  治癒の光を得る前に、影になって散るマナ。四度目の失敗を見届けて、ようやく俺はその場を離れた。この調子で手伝わせる気が無いなら、絶対に無理だ。 「お前らの取り決めなんて知らねえし。……誰か来そうになったら俺はフケる」 「いいよ。……面倒掛けてごめんね」  笑いやがった。呆れて舌打ちも出やしない。  再び貯水棟の上に戻って、制御塔に背中を預けた。ここからは、屋上に続く外階段の踊り場が見える。誰か来たら、隠れてやり過ごすか、フェンスを伝って窓を開け、下の空き教室に飛び降りる。見回りと鉢合わせないように、上級生の不良が仕込んだルートだ。腕力のないナツスミレと、左手を使えないラフィットには厳しいだろう。けど、無理な挑戦にはこっちだって付き合えない。  本格的に疲れとダメージが出てきたのだろうか。ラフィットは足を放り出して仰向けになった。自分が叩きのめした奴らと、魔法を唱え続ける女生徒に囲まれて、高く青い空を見上げていた。  本来の卒業は、遠く先だったとしても、確かにその日はあったはずだ。まともにやっていれば。目途半ばで学校を去る日の心境とは、どんなものだろう。いっそ辞めてやろうかと、何度も夢想していた俺とはまた違うのか。  けれど、あんな不貞腐れたツラをしていたんだろうな。くだらないとか、何でもないとか嘯いて。不良という奴は、見得から入るから、いつだって損ばかりするんだ。 「なあ……。もういいよ……。お前らだって、ここで見つかったら面倒な事になるだろう?」  ナツスミレは返事の代わりに魔法を唱え続ける。その様子にラフィットは、呆れを通り越して、露骨に苛立った。 「おい。それだけやって無理なんだから諦めろよ!制御塔の魔力を越えるなんて、特殊科の天才達でも聞いたことねえ。  そもそも頼んでねえし、オメーがお優しいのは充分理解したっての!」 「……私が勝手にやってるだけ。ラフィットくんが、気に……する必要……無い」 「おう!アヤセ!この女連れてけよ!マジでぶっ倒れるぞ!」  俺に振られてもね。あのシャバ子にこんな頑固な一面があるなんて、知らなかったしな。  ……それよりも、時間切れだ。踊り場の階段に人影が見えた。  今日の見回りは、朝の授業で俺も絡まれた、体育教師のトラッド。警備の腕章が短くて腕に巻けないのか、スタッフの先端で雑に止めてある。いいかげんな奴に見えるが、あれで結構規則にはうるさい。屋上のドアを開けるまで、あと二十秒あるかないかという目算だ。 「ナツスミレ。見回りが来た。今溜めてるヤツをしくじったら、俺はバックレる。お前も諦めろ」 「……わかった」  俺は立ち上がり、裏から降りる準備をした。貯水棟の陰に、一人分だけ通れる金網の隙間がある。肩口が引っ掛かるかもしれないので、ブレザーを脱いで、先に落とそうとしたところ……。  側に立つ制御塔が、ナツスミレの最後のトライに反応して駆動音を上げた。  マナの集積を感知すると、先端から現れる歪んだ陽炎が、反対側の塔へと瞬時に繋がる。このラインが、一帯の魔力結合を不可能にする。要するに、マナから魔力への変換を邪魔するタイプの制御システムだ。ここで無理やり魔法を顕現させるとしたら、印を用いたルーティーンや強力なマティエールで、超高速か超過力を生み出す技量が必要だ。もちろん、一般衛士科の俺やナツスミレにそんな技は無い。  俺に最後と釘を刺されたナツスミレは、これまで以上に周囲のマナを拾い集めている。あれが魔力になれば、範囲回復(エリアヒール)も可能になるはずだが……。 「……お願い!」  下手クソの俺からしたら、ナツスミレの魔法は充分速いし強力だ。それでも、制御塔の抑止力を跳ね返すには至らなかった。振り絞ってかき集めたマナは、治癒の淡光に変わる前に、残滓となってその場に留まるのが精一杯だった。 -……出来れば辞めたくねえよ- -立場上、私は容認出来ません- -トランスパレントは……。私の力と知識……だけで……破る……-  それまで起きていた出来事の、何にイラついていたのか。ただの気紛れだったのか。俺は駆動音を鳴らして陽炎を放つ制御塔に詰め寄った。何を押さえ付けようとして唸っていやがる?どんだけ偉そうな縛りだよ?  学校のない、休日の街で、耳に入って来るような、気に障る嘲笑と好奇の視線。コイツはそれだ。前に突っ立っていたものよりは、多少静かになったと思ったが、やはり耳障りで目障りだ。  小さく短く息を吐き、軸足は速く踏み込み、引き手を強く。 「ッオラァァァ!!!」  振り上げた右足が、イメージに近い軌道を描いて、制御塔の外装を砕く感触を得た。外枠が歪み、剥き出しになったギミック内部に向けて、もう一度前から踵で押し出すように蹴る。そこそこいい音がして、部品の一部が飛び散った。  この大陸に来てからの実戦は、こっちの方が振ってきた。魔法剣なんかより、よほど手っ取り早い。  振り返ってナツスミレ達の方を見下ろすと、周囲を淡い光が覆っていた。ラフィットは腫れの引いてゆく右目を確かめながら、なおも瞬き続ける治癒の光を見つめている。  直後、ナツスミレは糸の切れた人形のように、膝から床に転がるようにして落ちた。気を失うほどに精神力を使い果たしたのか。顔色は悪く、浅い呼吸を繰り返している。俺は貯水棟から飛び降りて、小さな肩を持ち上げた。 「おい!とっととズラがるぞ!トレニア!」  見開かれた両目には、深い碧の光が差し込まれていた。不意に手を取られると、目の前の光景が水のように揺らぎ、それが背後へと侵食していく。景色が歪み、意識があの部屋に向かう途中、すぐ近くにいるはずのラフィットの声が、上空から変声気味に届いた。 「おい!!お前ら何!?それどうなってんの!?」  それは俺にも分からない。 「……今度説明する。出来たらな。  それより、先生共には適当に誤魔化しとけよ」  返事が届いたのか、定かではない。次の瞬間には、俺は例の部屋にいた。  どこか懐かしいような、古い木の香りが漂っている。  やたらと背もたれの長い椅子に、膝を立てて座り、目の前のトレニアを睨んだ。奴は目頭を押さえながら、大袈裟に首を振る。 「制御塔を破壊して、ここに逃げ込む流れ……。止めません?」 「うるせー。オメーがとっとと出てきてアイツらを治してりゃ、ぶっ壊す必要なかったじゃねーか」 「だからそれは立場上……」 「どうだか……。  お前の事だから、いざとなったらナツスミレに手を貸したんじゃねーのか?甘いからよ」 「甘い?私がですか?」 「そうだ!お前、夜抜け出して俺のバイトを冷やかしに来るときに、屋敷をこっそり抜ける魔法を使ってるじゃねーか」  先程の口振りだと、透徹の魔女トレニアの魔法で、ナツスミレに協力はしない……。などと抜かしていたが、その点は紛れもないツッコミ所だろう。コイツは二枚舌で、数千年ぶりに出来た宿主の友達を甘やかしている。 「お前らのその『魔法を使った肩入れをしない』って取り決めが、理事長の立場だからか、魔法を極めた立場だからか知らねーけど……。ガバガバじゃねーか。ちゃんちゃら可笑しいぜ」  ……が。トレニアの回答は、俺の許容を遥かに上回っていた。 「何を言っているんですか?アヤセくん。それは明らかに別件ですよ」 「はぁ!?」 「だって……。スミちゃんは、好きな人が心配で、夜も出来ればお話ししたいと思っているから……。私はその代わりを務めただけです。  恋に協力するのと、魔法で贔屓するのは、全然別の話じゃないですか」 「……」  女子だった。  トレニアが不思議そうに覗き込む。俺の宇宙の外から。 「アヤセくん?」 「……わかった。もういい」  部屋の主であり、ナツスミレに身体を借りたトレニアは、唸りながら眉根を寄せた。 「というか……。結果、それだと……。 『誰かが来たら逃げる』みたいなことを言っていたアヤセくんの方が、スミちゃんを甘やかしたという事に……」 「あぁっ!?」 「ひっ!ひぃっ!そんなに怒らないで下さいよ……」  トレニアは意味不明な事をぼやいておいて、台所に逃げた。大して高価でもない園芸部産の茶葉を選びながら、ぶつぶつとまた文句を言う。 「せっかく最新式を卸したというのに、蹴って壊すなんて……。呆れました。  スミちゃんとお話しするようになってくれて、少しは更正しているのかと期待していたのに……」  それは悪いと思っている。これでもな。  ただ……。これには俺も一つ、それを踏まえた上で言っておくべき事がある。更正云々は無視。 「だって……。壊れるなんて思わねえじゃねえか」 「ええ……」 「そうだろ?力ずくで壊せるのに、制御塔を名乗るのはおかしいだろ。  魔法を好き放題使わせない為のモンなのに、魔法じゃなければ簡単に壊せるってんじゃ、役に立たないと思うんだが?」  はっきり言って、ムシャクシャしたから、タイミング良く当たっても良さそうな物に当たっただけなのだ。壊れるまでいかなくても、調子が一瞬でもおかしくなれば、治癒魔法が通るかもしれない。計算、というと見得だが、あの場は反射的にそうしたのだ。  月の装飾を刻んだ紅茶のカップが目の前に置かれる。柑橘系の香りが強いが、口に含むとその香りは主張を取り下げて、むしろ淡白な後味になる。 「ふむ……。理屈としては正しいかもしれませんが……。  ブルーウィンの生徒、魔導士としては、大きく間違えていますね」  別に構いやしないが。そこまで言われると気にはなる。 「なんでだよ」 「壊せないものを生み出してはいけないからです」  伝説の魔女は小さな胸に両手を充てた。 「衰退したとはいえ、この大陸の魔法は、まだまだ色々な事が出来ます。作物を育てたり、乗り物のエネルギーにしたり、便利な魔法具を発明したり。……争いを起こしたり。  魔法に限った話ではありませんよ?力には際限がないといけません。上には上がいる、という考えを持てなくなった時、そういう人物ばかりが権力を持った時。再び、この大陸は戦火の炎に焼かれることでしょう」  上には上……。俺にとっては剣術指南役のジジイか。いや、強さだけではなく、敵わない、争いたくない、という相手がいる方がいい。そういう意味もあるのか……?少し俺には難しいようだ。 「便利だからといって、魔法が絶対であってはいけないのです。  あくまで、生活の糧、営みの手段、発展の種。魔法を制御する力でも、それが破れなくなってしまえば、その抑制力が恐ろしい力になってしまいます」 「……魔法を封じるって事。それ自体が驚異になるって意味か」 「学園の制御塔を例に挙げるなら、そうですね」 「例……。ね……」  背もたれに体重を預けて、椅子の足が浮く。ガキの頃、これをやると母親に怒られた。  奴が言いたい事は別にある。トランスパレントは……。 「お前の言う『壊せないもの』ってのは、それだけであっちゃならねえモンなんだな」  トレニアは俺にまっすぐ視線を寄越したまま、こくんと頷いた。 「条理を覆してはいけない。それも魔導の理。形あるものは、いつか土に帰らなければ、文字通り土台を失う。  その時、私達は何処で暮らせばいいのでしょう?」  今日の箱庭は灰色の空模様。新緑を拐う風が、いつの間にか静かな霧雨に変わっていた。大窓からの景色は、点々と伝う滴の向こうで、霞が掛かっている。部屋の中は快適な室温を保っているが、古い木の香りが増して、森の中にいるようだった。  シケた話だ。俺は話題を変えた。 「ナツスミレは起きてるのか?」 「精神力を消耗して、今は眠っています」 「ラフィットの奴にはどう話す?」 「二人で決めて頂いて結構です。私とスミちゃんの関係は、あまり触れ回って欲しくないですけど、思ったより誠実そうな方なので、正直に話してもいいかもしれませんね」  憑依による二人の関係は絶対に秘密、というわけではないのか。まあ、伝説の魔女トレニアの存在なんて、どうせ信じる奴の方が少ないし。  短い会話が途切れて、俺たちの視線は窓の外に固定された。音もなく降り続ける霧状の小さな雨が、小川に波を作っている。天気のわりに、外は真昼の明るさを保っていた。  ナツスミレとトレニアの間に、どんな決め事があるのか。俺はさっきその一つを知った。全ての悪意と危害を遮断する、絶対魔法トランスパレントは別として。……色恋沙汰も別として。  魔女の魔法はナツスミレを助けない。あるがまま、人間の魔導士ナツスミレとして、学園生活を送らせる。それがコイツらの理だと言うのなら……。  この二人は、その特殊な関係の中で、互いに何を思い、何処までを許し、何を持って決着とするのだろう。 「ナツスミレは将来、お前の絶対魔法を破れると思うか?」  トレニアの視線は動かない。 「今日は珍しく質問が多いですね」 「たまにはな。アイツが寝てる内にしか訊けないと思ってた」 「そうですね。あの子が寝ている内に、答えておきましょう」  いつしか芽生えていた疑問。眠りの直前に浮かぶような、目覚めたらもう覚えていないような、思い付きの儚い疑問。  しかし、命を……青春の時を。身体という形で支え会う二人の姿に、俺は何かを期待していた。  トレニアは窓の外を見ながら、ひどく無機質に答える。 「私は二千七百年をかけて、今こうしています。肉体を失くしただけで、不滅の精神体として留まっている……。  それが事実であり、同時に答えとなるでしょうか」  言われてみれば、当たり前のことだ。何しろ途方もない。 「トランスパレントを破る、という意味では……。  スミちゃんに期待はしていません」  けれど……。それはなんだか……。 「同様に……。  私より永く存在する事も、私のように魔導に溺れる事も……」  世界から切り離された透過の小部屋。トレニアの言葉は続かない。俺は少し待って、今日最後の質問をした。 「……アイツの夢を見届けるって言わなかったか?」 「見届けます。結果がどうであれ……」  厄介な野郎だ。やっぱり、長生きなんてするもんじゃない。  窓を見つめる碧の瞳はそのままで。この箱庭の空模様のように、静かに暗く、佇んでいた。
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