0人が本棚に入れています
本棚に追加
つん、と、鼻先に冷たい感触が走った。
俺ははっとして顔を上げる。この真っ暗な空に、どの位の雲が蔓延っているかなんて、全く考えていなかった。
やばい。
俺は慌てて走り出した。こんな時に雨まで降られちゃ、堪ったもんじゃない。
また空を見上げる。
さっきから2、3粒程雨が増えたか。
間に合うか?
すぐ隣を、車がスピードを上げて通り過ぎた。
いつもの交差点、此処を右に曲がれば、後は真っ直ぐ行くだけだ。
また空を見上げた。そんなに雨も強くない様だ。
大丈夫か……。
俺はほっと息をついた。
心配し過ぎか。そう言えば傘も持ってないし、降られるのはやっぱり困る。
俺は走ろうとした。
その時に顔なんか上げるんじゃなかった。
「……嘘だろ」
暗い交差点の赤いポストは、昼間の雰囲気を失って、陰気臭く其処にいた。
その隣で、赤いハイヒールを履いた女が、俺の方を見て佇んでいる。そのハイヒールだけは、他とは違う妖しい光を放っていた。
「おかえりなさい」
女はそう言った。
周りにどんなに車が走っていても、どんな土砂降りでも、その女の声ははっきり俺の耳に響くのだ。
その声に呼応するかの様に、急に雨脚が強くなった。
俺は目を合わせない様に、慌てて走り出した。
何だよ、今日は大丈夫だと思ったのに!あんな小雨もカウントするのかよ!
あの女が俺の前に現れ出したのは、3ヶ月程前からだ。
言うまでも無く、あの女はこの世の者じゃない。だから他の奴に見せても、お前大丈夫か、疲れてんじゃないのか、と言われるのがオチだった。
疲れてんじゃない、憑かれてんだよ!
現れるのは決まって雨の日。そして必ず同じ場所で待っている女。
最初見た時は、傘も差さないで大丈夫かな、位に思っていた。しかし彼女の前を通った時、俺は全てを悟ったのだ。
「おかえりなさい」
彼女がそう言ったのだ。
其処にいたのは勿論俺一人。心臓がきゅっと縮んで、息が詰まるのを感じた。
ばっと振り返ると、彼女の姿は、もう無かった。
それ以来、今日までずっとだ。
最初のコメントを投稿しよう!