おかえりなさい

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つん、と、鼻先に冷たい感触が走った。 俺ははっとして顔を上げる。この真っ暗な空に、どの位の雲が蔓延っているかなんて、全く考えていなかった。 やばい。 俺は慌てて走り出した。こんな時に雨まで降られちゃ、堪ったもんじゃない。 また空を見上げる。 さっきから2、3粒程雨が増えたか。 間に合うか? すぐ隣を、車がスピードを上げて通り過ぎた。 いつもの交差点、此処を右に曲がれば、後は真っ直ぐ行くだけだ。 また空を見上げた。そんなに雨も強くない様だ。 大丈夫か……。 俺はほっと息をついた。 心配し過ぎか。そう言えば傘も持ってないし、降られるのはやっぱり困る。 俺は走ろうとした。 その時に顔なんか上げるんじゃなかった。 「……嘘だろ」 暗い交差点の赤いポストは、昼間の雰囲気を失って、陰気臭く其処にいた。 その隣で、赤いハイヒールを履いた女が、俺の方を見て佇んでいる。そのハイヒールだけは、他とは違う妖しい光を放っていた。 「おかえりなさい」 女はそう言った。 周りにどんなに車が走っていても、どんな土砂降りでも、その女の声ははっきり俺の耳に響くのだ。 その声に呼応するかの様に、急に雨脚が強くなった。 俺は目を合わせない様に、慌てて走り出した。 何だよ、今日は大丈夫だと思ったのに!あんな小雨もカウントするのかよ!   あの女が俺の前に現れ出したのは、3ヶ月程前からだ。 言うまでも無く、あの女はこの世の者じゃない。だから他の奴に見せても、お前大丈夫か、疲れてんじゃないのか、と言われるのがオチだった。 疲れてんじゃない、憑かれてんだよ! 現れるのは決まって雨の日。そして必ず同じ場所で待っている女。 最初見た時は、傘も差さないで大丈夫かな、位に思っていた。しかし彼女の前を通った時、俺は全てを悟ったのだ。 「おかえりなさい」 彼女がそう言ったのだ。 其処にいたのは勿論俺一人。心臓がきゅっと縮んで、息が詰まるのを感じた。 ばっと振り返ると、彼女の姿は、もう無かった。 それ以来、今日までずっとだ。
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