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この人は魔法を使っているんじゃないか。そんな風に思ったことが何度かある。
店内にある無数の生きた草花は灰色のコンクリート壁を背にして、どれもがしなやかで清冽だ。意志を湛えたように見える静謐な姿はサキさんに似て、チープな店構えとあまりにかけ離れていた。
疎い僕も、無意識に目で追うようになった。他の花屋のショーウィンドウ前で、百貨店のエレベータホールで、洋食屋で、バラ、ユリ、ネリネ、あるいはハイドランジア。
そのたびに僕の脳内は、サキさん魔法使い説を濃厚にしてゆく。
「花は人の心を動かす変化の象徴よ」
優しい弧を描いた眼はいつも花に注がれていた。
どうしてフラワーサキはガラス中に段ボール板が貼られているのか。気づいたとき、僕は少し震えて慄いた。
しばらく足が遠のいていた広場を久しぶりに訪ねてみた。
ガラスの天板からは空の青さと日ごとに強まる陽が差し、それを浴びながら子ども達が色とりどりの風船を片手に駆け回っている。控えめな風が湿気を孕んだアーケード内を抜けてゆき、僕はひと時の涼を得る。
いつもの店を出たあと、主を失って天板の隅にふわりと揺れる風船が視界の端に入った。買い物袋を提げた人々は立ち止まることなく、何ごとか談笑しながら通り過ぎてゆく。りん、と澄んだ風鈴の音が遠くで聴こえる。
正午前の広場はいつも通りに往来が忙しい中、フラワーサキの店先だけは避けられているようにぽっかりと空間になっている。道沿いの花壇の中には、赤茶色の土しか無かった。
ブロンズのチェアから女性が立ち上がり胸の前で小さく手を振った。僕も手を振り返しながら、
「ネメシアは、」
どうしたんですか、そう訊こうとした。
太陽の下、溌溂と白く健気だった。
サキさんは薄く形の良い唇を少し尖らせたあと、ニコリと笑ってこう云った。
「意地悪な人が抜いていくからね、」
ああ。爛々としたサキさんのあの眼。
貴女が育てた、貴女の子ども達。
「全部、刈り取ったわ」
今日も素敵なサキさんは、どこか狂っている。
【了】
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