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 二〇〇九年、春。  僕が某地方都市の大学に入学したばかりのころの話だ。  アパートから自転車で十分くらい走ったところにある商店街へ来ていた。  商店街は東西に長く、三つ隣の町までアーケードが伸びていて、主要駅からほど近い。西側の外れへ自転車を駐めて中へと歩く。たまたまその日はアーケード内に『さくら日和』と書かれた幕があちこちに垂れ、多くの家族連れで賑わっていた。  満開の季節から少しずれている気もしたが、浮かれた音楽の中めいめいの店屋がテントを出し、桜にちなんだものを軒先に並べて客を寄せている。銀行前のホールの仮設ステージの上では、高校生と思しき五人の男女がアカペラを披露している最中だ。取り巻いている聴衆の後ろから、向かいのパン屋のお姉さんが叫ぶようになんとかブロッサムというクッキーの試食を呼びかける。  アーケードの支柱一本一本に飾られた桜の小枝が可愛らしい。いつもよりゆっくり歩いているせいか、普段は気にかけないようなことが五感に鮮明だ。  途中、煎茶の香りに惹かれて寄り道をする。煤木で組まれた昔ながらの商家の格好をした店構えだった。あるいは、本当に昔からそこにあるのかも知れない。三和土の店内に足を踏み入れると和服の女性店員がにこやかにお茶を勧めてくれる。  框の奥ではいかにも職人風の老人が石臼を回している。見かけとは裏腹に、碾茶を挽く音はしっとりと静かである。僕は何だかそのひとの声が聞きたくて、急須も持っていないのに茶葉を買った。老人は黙って浅く会釈をするだけだったが、女性は大げさに喜び、塩漬けにした桜の花弁が載った饅頭を小皿に乗せてくれた。ひととき過ごした後、また来ます、と云って目的の場所へ向かった。
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