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「慎太郎……僕の名前は中川慎太郎です」
「ええい、慎太郎だろうと鎮太郎だろうと大差はあるまい」
「大ありですよ」
時刻は午後九時過ぎ。大型の冷蔵庫が唸る音が聞こえるばかりで、辺りに二人以外に人の気配はない。
「それよりもだ。どいてくれないか?」
「──あっ、ごめんなさい」
僕は道を塞いでしまったらしい。身体を動かすと今日堂院はそのまま明かりが半分消された廊下を歩いていく。
僕はついていくことにした。
「学会用の発表資料は、先週のうちに完成していたのに最終チェックの段階になってデータの追加をして欲しいだと、呆れたものだ」
今日堂院はぶつぶつと呪いを呟くように言った。
「あと一枚グラフが加われば、この研究はより完璧なものになると指導教員に言われて断る学生がいるはずもない。私は寝食を惜しんで追加実験に挑まざるを得ない状況に陥れられたに違いない!」
僕は今日堂院の横を歩いていてその様子を見ていたが、整っている黒髪を乱らに揺らし始めて廊下に響き渡る声が音響しあっていた。
「一日費やしてデータを取得したが、解析処理によって得られるはずの統計的な有意差は出なかったのは、データ数が不足しているのもあった。結局、元の資料を使うのだったら私の時間は無駄になってしまうではないか……」
愚痴をこぼしながら研究棟を出たところで、今日堂院は足を止める。僕も釣られて足を止めた。歩道に沿って並ぶサクラの木々。その枝先を飾る艶やかな花弁が、街灯の青白い光に照らされ、幻想的な景色を作り出していた。
僕は仮に素通りするには惜しいであろう景色に、深夜の花見も悪くないと思っていた。
今日堂院も同じ感情を抱いたのか、近くのベンチに二人して腰を下ろした。
「これからよろしく頼むよ鎮太郎くん」
「それ、わざとしてますよね……。今日堂院先生、これからお願いしますね」
「ああ……。頼りにしているよ」
夜。
星が点々と個々として輝きを放つ夜空。
春の香りと風が今日堂院を撫でる。
僕は生まれて初めて女性という生き物に興味を持った。
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