0人が本棚に入れています
本棚に追加
/17ページ
桜子の部屋は相変わらず整然としており、何もそれらしい変化は見受けられなかった。必要最低限の物しか置かないという彼女の性格もまた、変わってはいないようだ。
「いまお茶入れるね。寒いから、ココアがいいかな。コーヒーは、叔母さんのには敵わないし」
「いえ、そんなこと。わざわざすみません」
「いいのいいの。それより昨日はごめんね、混乱させちゃって。あたしもちょっと、どうかしてた。『今日が最後』っていうのも、『あの店に来るのが最後』って意味だから、心配しないで」
水滴や汚れ一つ無い台所で、桜子は予め志穂を待っていたかのように要領よくお茶の準備をする。灰色のスーツではない、ピンク色の暖かそうな普段着を着た彼女の背中は、志穂をほんの少しだけ安心させた。
「はい、おまちどうさま」
「どうも、いただきます」
志穂のために用意された、テディベアのあしらわれたマグカップ。それとココアの味が、志穂には懐かしく感じられた。
「何か久しぶりだね、しーちゃんがウチ来るの。小学校以来?」
「はい。あの時はまだ私服で、ランドセルしょってましたから」
「それがもう中学生とはね。あっという間に、大人になっちゃうんだろうな」
微笑みで返す志穂。以前と変わらない、談笑の時。自分の質問次第で、それが永遠に終わってしまう可能性を考えると、胸が締め付けられるようだった。
「それより、今日は何の御用? 勉強? 写真のモデル? それともまさか、恋のお悩み?」
「……昨日聞けなかった、桜子さん自身の事です」
相手の眼を見て、はっきりと伝える。
「……そっか」
桜子は眼を逸らし、窓の向こうを見つめる。しばらくの間、雨音の運ぶ重い沈黙が流れた。
返答を待つ志穂の脳内では、今朝の友人達の言葉が反響していた。セクハラ、パワハラ、ブラック企業。ニュースや噂でしか耳にした事のない、実感の無い言葉。それが今、藪の中の蛇のように飛び出してくる事の予感に、息が詰まりそうだった。
最初のコメントを投稿しよう!