彼女について

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年齢、性別、職業問わず、いつだってあいつの周りにはどこかへんなひとがいた。 一番古い記憶だと、例えば幼稚園の先生。年長クラスの担任の先生は、年若い先生だった。 優しい笑顔、穏やかな口調、みんな先生が大好きだった。 幼稚園の記憶なんて大してない。昔のことなんてすぐ忘れがちな俺の中に、この記憶は鮮烈に残り続けている。 「ーー触らないでよっ!!」 些細な事だったはずだ。幼い子どもによくあるスキンシップ。あいつの手をただ握ろうとしただけの男の子の手は、先生によって叩き落とされた。 遊びの時間で賑わっていたクラスがしん、と静まり返る。 初めてだった。先生があんな大きい声を出すのも、あんなに怖い顔をするのも。困惑して声も出せない俺たちに、震え上がり泣き始める男の子。 荒い息のまま俯く先生。 少し長い前髪が目元に陰を落とす。 子どもの低い背丈から見えてしまった表情は暗く、歪で、いつもの温かい眼差しは不気味な光を帯びて、あれは こわかった。 息も整わないまま、先生がゆらりと男の子に手を伸ばし 「せんせい」 一言だった。 あいつが発したのはその一言だけ。 なんて事ないような口調で、上手くかけた絵を見てもらいたいときのような、ちょっと呼び止める時のような、いつもの声が静まり返った教室に響く。 「あ…ご、ごめんね。ごめんなさい」 「違うの、ごめん、やだ…ああ………」 劇的な変化だった。 くしゃり、と叱られたこどもみたいに顔を歪めて泣きはじめた先生。 よろめくようにあいつを抱きしめて、先生はしばらく泣き続けた。 今思うとあれは本当にあった事なのだろうか。白昼夢のような記憶。 あれ以外で、先生があんな姿になったことは一度もなく、俺たちは何事もなく卒園した。 鮮烈に残り続けるこの記憶の中で、俺が一番忘れられないのは 手を叩き落とされた男の子の怯えた顔でも、先生のおそろしい表情でも激しい変化でもなく 先生の頭を優しく撫でていた、あいつの穏やかな笑顔だ。
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