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僕はその日、屋上にいた。僕と彼女が屋上にいた。彼女は未だに皺一つない制服を身に纏っている。
「……離れ離れになっちゃうね」
彼女は泣きもせず笑いもせず淡々とした声で告げた。僕はその時の彼女の感情が理解できなくて、何も答えなかった。
「……多分、もう会えないよね」
彼女は僕と大学が違うことを嘆いているのだと思い至った。だから、僕は彼女を安心させるよう言う。
「そんなことないよ。さすがに毎日は会えないけど、できる限り努力するよ」
けれど、彼女はゆっくりと首を振った。まるで不正解だと言わんばかりに悲しい顔をした。
「迷ってたんだけどさ、決めたんだ」
そして、スタスタと屋上の端へ歩いていく。嫌な予感がして僕は慌てて彼女の腕を掴む。
「君も私と来るの?」
冷ややかな笑みを向けられる。それだけで僕は手を離してしまった。
「先に行くよ。……でも、もし会いたくなったら空を見てね。そこに私はいるはずだから」
そして、彼女は柵を乗り越えて本当に屋上の端の端に立った。下を見て、生唾を飲み込んだ。一度だけこちらにちらっと視線を向けて、
「ごめんね」
驚くほど静かに下に落ちていった。僕は反射的に手を伸ばし、数秒後に響いた鈍い音にビクッと体を震わせた。
そこから先の記憶はない。覚えていないのか、元々存在しなかったのかは分からない。けれど、気がついたらここにいた。
僕は彼女が虐待を受けていることを知っていた。彼女が僕を拠り所にしていたのも知っていた。ひどく寂しがり屋なことも知っていた。脆い存在であることを知っていた。彼女が感情表現が苦手なことも知っていた。
知っていてなお、彼女を引き止められなかったことに吐き気がするほどの悔しさと引き裂かれるような胸の痛みに襲われる。耐えきれなくなって流した涙も打ち付けた拳もこの世界では一片の意味すら持たなかった。
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