第二章 捕縛師ヴァユーの標的

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第二章 捕縛師ヴァユーの標的

 一  プリモも足早に食堂から走り出た。 「あの、ハリアーさん!」  食堂を飛び出し、旋風の勢いで塔を駆けるハリアーを追って、プリモも瞬く間に一階の玄関ホールにたどり着いた  階段の下で、はあはあと息を切らせるプリモ。  その彼女の目の前で、今しもハリアーが勝手に玄関扉を開け放つところだ。 「あ、あの、ハリアー、さん?」  切れ切れのプリモの言葉も聞こえないのか、ハリアーがぎぎぎ、と鋼鉄の門扉を開け放った。  傲然と戸口に立ちはだかる女剣士の背後から、プリモもひょいと爪先立って外を窺う。    今、玄関の外には一人の男が立っている。  二十代も終わりごろだろうか。  こげ茶色の長い髪を風になびかせた青年だ。  浅黒い精悍な顔つき、鳶色の目に溢れる静かな闘志。  しかも単身とあれば、熟練の戦士に間違いないだろう。  飴色の革鎧の上に、質素な茶色の外套を着込んだその戦士、先端が深く二股に分かれた長柄の武器を手にしている。  プリモもあまり見た記憶がない、刺叉(さすまた)というポールアームだ。    玄関を挟んで対峙する女剣士と戦士だったが、先に口を開いたの男の方だった。  真っ直ぐにハリアーを見据えたまま、落ち着き払った口調で聞く男。 「ここは『黒龍の塔』で間違いないな?」    この大陸の共通語だが、わずかに訛りがある。    プリモは男の問いに答えようと、息を吸った。  が、ハリアーの返答の方が早かった。 「ああ、まあ世間ではそう呼ばれてるね。で、何か用? この塔の住人と知り合いかい?」 「お前は?」  逆に問い返してきた男に、ハリアーが不敵に笑って指を振って見せる。 「ちょっとちょっと。ひとに名前を聞くんなら、まずしきたりどおり、自分から名宣れよ。お前、戦士なんだろ? 戦士なら、“戦士の礼”は守ってくれなくちゃ」  ハリアーが冷やかすと、男の上体がわずかに仰け反った。  鳶色の目の奥にわずかばかりの羞恥を覗かせて、男が小さく唸る。 「確かに正論だ」  一言呻いた男は、胸を張り直す。  そして冒険者のしきたりに則った名宣りを上げた。 「私はヴァユー。ヴァユー=メトセール=ヴァスバンドゥ。第六階戦士“戦士(ウォリアー)”だ。剣士ならお前も名宣れ」 「ああ、いいよ」   ハリアーも不敵な笑みを崩さないまま、このヴァユーの不躾な求めに応じる。 「あたしはハリアー。ハリアー=ローサイト=シフレ。一応、階梯上は第八階戦士“万器練達(マスター・アット・アームズ)”ってことになってる」  彼女の名を聞き、男の太い眉がいびつに動いた。  平静を装っているが、その顔にはどこか怯んだような陰が差す。 「お前、“流星雨のハリアー”か? 冒険者崩れを専門に狙うという女賞金稼ぎ」 「おっ、だいぶあたしの名前も知られてきたな」  ハリアーが弾んだ声を上げると、ヴァユーは冷静な表情のまま、天を衝く円塔を見上げた。 「そうか、お前が来ているということは、この黒龍の塔の主人は賞金首だったのか」  彼の素っ気なさ過ぎる言動が、ぶすりとプリモに突き刺さる。 「違いますっ!」  我慢しきれずに声を上げ、プリモはハリアーの前にパッと跳び出した。  彼女はハリアーとヴァユーの間に割り込むと、ヴァユーをぐっと反抗的に見上げ、不満を並べる。 「旦那さまは、そんな人殺しや泥棒さんなんかじゃありませんっ! 旦那さまは、とても立派な魔術師なんですからっ! 本当に、冒険者さまたちは、何にも知らないんだから……!」  必死に主人を庇って声を上げるプリモ。  だが高く愛らしい声で綴る文句は、何だか小鳥のさえずりのように響く。  迫力は全くない。  そんなプリモを見下ろして、ヴァユーが短く聞く。 「お前は?」  真っ赤なふくれ顔でふーふーと肩を上下させるプリモに代わり、ハリアーが軽く答える。 「プリモだ。この塔でメイドやってる」 「そうか、使用人か」       うなずいたヴァユーが、眉一つ動かさず、淡々と居丈高に言う。 「では主人に取り次げ。話はそれからだ」 「おい、ちょっと待てよ」  と、またハリアーが、ずいとプリモの前に進み出た。 「まだお前の用件を聞いてないぞ。アイツに何の用なんだ?」  玄関から一歩踏み出した彼女は、腕組みしてヴァユーを軽く睨んだ。  だがヴァユーは取り合わない。  ハリアーからついと視線を逸らし、冷淡に突き放す。 「お前には関係ない。“流星雨のハリアー”」  つっけんどんな彼の言葉と態度に触れて、にやりと笑ったハリアーが腕組みを解いた。  ものすごく挑戦的な気配が、ハリアーの両肩から立ち昇る。  ゆらめく陽炎にも似た、燃え上がる闘気。 「いいや、あるね」  ハリアーを取り巻く空気が焦げ臭く、まるで炉端のようにプリモの頬をひりひりと灼く。 「アイツとあたしは同族で、一宿一飯の恩義もあるからな。お前をこのままほっとくのも、寝覚めが悪い。ここはアイツの関係者になっといてやるよ」 「同族?」  ヴァユーの鳶色の目が、ぴくりとハリアーを捉える。 「この塔の主は悪辣な黒龍(ブラック・ドラゴン)だと聞いているが、お前も龍(ドラゴン)だったのか?」       飄々と問われたハリアーが、深くうなずく。  答える言葉にも、ありったけの自信と自負が籠っているようだ。 「龍である以前に、あたしは剣士だけどな」 「そうか」  一言答え、ヴァユーが目を伏せた。  ふう、と深い吐息をついて、彼が言う。 「できれば穏便に話を済ませたいのだが、そうもいかないか。部外者に依頼の内容を明かすには、それなりの理由が要る」  諧謔的な息を洩らし、ヴァユーが腕をゆっくりと下げた。  じりじりと後ずさりしつつ、彼が玄関前から地面の小道へと退いてゆく。  しかし逃げる気はなさそうだ。  ハリアーとヴァユーの距離は、八歩ばかり。間合いとしては、長物を持つヴァユーに有利に見える。 「あの、ハリアーさん……?」  プリモはハリアーとヴァユーを交互に見比べた。  彼の言葉の意味も意図も、プリモには全く理解できない。 「『りゆう』って、何ですか? ヴァスバンドゥさんは、何が言いたいのでしょう?」  戸惑いを隠せないプリモの問いに、不敵な笑みのハリアーが、ハッキリと答える。 「ああ、あれはあたしへの挑戦だよ」 「『ちょうせん』って」  不安いっぱいのプリモの言葉を、ハリアーは威勢のいい声で打ち消した。 「あたしと“太刀合え”ってことさ!」  言うが早いか、ハリアーが玄関口から跳び出した。   「お望みどおり、明かさせてやるよ、ヴァユー! その依頼ってヤツを!」   そして瞬き二つ。  あっという間もなく、ヴァユーと半歩の距離まで肉薄したハリアーが、背負った反り身の剣を抜き払いざまに斬り下ろす。    彼女の閃く白刃は、髪一筋の間合いでヴァユーにかわされた。  鋭い銀色に煌く鋒(きっさき)が、流星のような目映い光跡を彼の鼻先に描く。  「速い……!」  ハリアーの一閃を際どく避け、ヴァユーが驚愕に呻く。  彼の得物は、ほぼ身の丈ほどの長さを持った刺叉だ。  懐に飛び込んできた相手には有効性を欠く。  ましてや、構えを固める前に踏み込まれては、反撃もままならない。  両手で刺叉をぐっと握り、ヴァユーは得物の柄で白刃をキンキンッと弾きつつ、攻勢に立つハリアーの隙を必死に探る。  だが、無尽に斬撃を放つ彼女の体勢は、全く崩れない。  どんな角度で剣を振っても、ハリアーは即座に姿勢を整えて、次の一閃を繰り出す。  その絶え間ない斬撃の連続が、無数の流星雨を虚空に刻む。  玄関先から二人の剣戟を見守るプリモも、ハリアーの身のこなしに息を呑んだ。  ……ああ、これがハリアーの二つ名、『流星雨』の由来なのか。  終始ヴァユーを圧倒するハリアーだが、それでも大人しいプリモにとって、閃く武器自体が不安を掻き立てる。  プリモは、つい今にも泣きそうな声を上げた。 「ハリアーさん、大丈夫ですか?」  しかしハリアーは斬り付ける手を休めない。  それどころか、余裕の笑みさえ湛えている。 「大丈夫大丈夫! まあ見てなって」  そう答えた彼女の紫紺の瞳が、一瞬よそを向く。  その刹那の間隙に、ヴァユーが目ざとく反応した。  ふっと前かがみになった彼が、さっとハリアーから跳び退いた。  三歩半ばかりの間合いを測り取って、ヴァユーが刺叉の磨き上げられた穂先をハリアーに向ける。  鳶色の目に戦う意志を一杯に漲らせ、小さく息を整えた彼が、ひゅっと刺叉を突き出した。  その冷たい風のような刺突(しとつ)は、正確にハリアーの喉元を狙う。 「をっ?」  しかし彼女は微塵も動じない。  素っ気なく身をこなし、するりと一撃をやり過ごした。 「んー、まあまあ鋭い衝きじゃ……」  そんな彼女のつぶやきが完結するより早く、ヴァユーの二突目が繰り出された。  ををっ、と声を上げ、体を捻ったハリアーの右手首を刺叉が掠める。  彼女がわずかに崩れた姿勢を正すの待たず、雁股の穂先が三たびハリアーを襲う。  サソリのハサミを思わせる刺叉が、ハリアーの足首目がけて風を斬った。 「ををを?」  だがハリアーの目が、刺叉が繰り出される瞬間に狙いを察し、彼女はくるりと素早く宙へ跳ぶ。  彼女の足首を捕えたかに見えた刺叉だが、ハリアーの宙返りで空しく地面を衝いた。    すとんと着地したハリアーが態勢を整えるより先に、ヴァユーが地面から引き戻した刺叉を構え直した。  そして自らもわずかに腰を落とすと、真正面から彼女に衝きかかった。      ばばばっ、と残像が残って見えるほどの刺突の嵐だが、ハリアーの余裕は崩れない。  何十とも見紛うヴァユーの刺突を視認してひょいひょいと器用にかわしてのける。  結い上げた赤い髪を揺らすその様は、まるで身軽で柔軟な、しっぽの長いイタチのようだ。  彼が繰り出す幾多の刺叉をかいくぐりながら、ハリアーは突然問いをぶつけた。 「おい、ヴァユー。お前、“捕縛師(アブダクター)”だな? ああ、流派はメトセール流だったか」 「それがどうした?」  得物を操る手を止めないまま、ヴァユーが無表情に短く返してきた。  そこに否定の響きはない。  片方の犬歯が光るハリアーの口許が、かすかに緩む。  同時に、ハリアーは剣の柄を握る右手をゆっくりと頭上に翳された。  その動きは、何かの構えを暗示するように見える。  と、その彼女の手首を狙って、ヴァユーの刺叉が勢い良く突き出された。  風を斬る穂先がハリアーの手首を挟み込んだかに見えた刹那、ハリアーの左手が穂先の根元をがしっと掴んだ。  うっ、と低く呻き、刺叉を渾身の力で引き戻そうとしたヴァユー。  だが、もう遅かった。  反り身の剣をパッと手放すが早いか、ハリアーが刺叉をがっちりと両手で握る。  ぐうっと刺叉の穂先を頭上まで高々と持ち上げ、ふん、と鼻を鳴らした。 「これでも食らっとけ!」  そんな威勢のいい声とともに、ハリアーは刺叉を掴んだ両手を思いっきり振り下ろした。    刺叉の長い柄が、ハリアーの渾身の反動をヴァユーに余すことなく伝えきる。  堅く握った刺叉に大きく振られ、ヴァユーの体が、ぐらりと揺れた。  彼の足が、地面からふわりと浮き上がる。 「うわっ!?」  一声上げたヴァユーがもんどり打って地面に倒れ伏し、彼の刺叉は手から離れて砂の上に転がった。  舌打ちとともに、彼は腹這いのまま、刺叉に右手を延ばす。  だがその腕は、背中で馬乗りになったハリアーにがっちり捕えられ、刺叉に届くことはなかった。 「はい、一丁あがり」  ヴァユーを脇固めにぎりぎりと押さえ込み、ハリアーは会心の声を上げた。  彼女の下で太い眉根をゆがめ、ヴァユーが対照的な嘆息を深く洩らす。 「わ、私が、こうも簡単に組み伏せられるとは……!」  悔しさいっぱいのヴァユーの呻きを聞き、ハリアーが淡々と告げる。 「お前、腕はまあまあ悪くないけど、狙ってるトコがバレバレだ。まあ、“捕縛師”は標的を生け捕りにするのが仕事だから、狙いは手と首と足になりがちだけどな。得物が刺叉なら、なおさらだ」  勝負の付いたハリアーとヴァユーを見て、プリモはふう、と安堵の息をついた。  彼女は玄関先から踏み出して、ハリアーたちに歩み寄る。 「お二人とも、お怪我は?」 「あたしは大丈夫だってば。コイツもね」    ハリアーはヴァユーを押さえ込んだまま、プリモに余裕のウインクを送った。  そうして、すぐにハリアーがヴァユーの後頭部に目を戻す。 「それじゃあ、そろそろお前の依頼ってヤツを聞かせてもらおうかな。どうやらメヴィウスを生け捕りにしに来たらしいけど、依頼主も聞きたいね」  地面にうつぶせるヴァユーの後頭部から、苦しげな声が洩れてくる。 「……分かった。分かったから、放してくれ」  ハリアーが素直にヴァユーの上から退くと、彼もゆっくりと立ち上がった。  むっと口をつぐみ、ヴァユーが体に付いた砂を両手で払いのける。  だが彼の伏しがちな目は、一向にハリアーを見ようとはしない。  やはり悔しいのだろう。  そのヴァユーが、妙に無感情な口調でハリアーに告げる。 「私の用件と依頼主は、懐の紙を見れば分かる」 「見せてみろよ」  言い返したハリアーが、くびれた腰に両手を当て、ぐっと彼を見上げた。  その紫紺の瞳には、疑念がありありと浮かぶ。 「何かヘンなこと企んでないだろうな? “捕縛師”ってヤツは、大体ロクなのがいない」 「ひとのことを言えた義理か? この女賞金稼ぎ。そこまで言うなら、お前が取り出してみろ」  皮肉めいた苦笑を交えて切り返し、ヴァユーがおもむろに両手を挙げた。  掌を前に向け、彼はその手を高々と頭上まで伸ばす。  そんな無防備な体勢を認め、ハリアーが彼の外套の中に右手を入れた。  ごそごそと懐を探った彼女が、小さく声を上げる。 「ん? コレか?」  ハリアーが、ヴァユーの外套から平たい物を引っ張り出した。  飴色のなめし革を二つに折り、合わせ目を緋色の紐で綴じた手帳のような物だ。  文字は見当たらない。  プリモは革の冊子を見ながら、不思議そうなハリアーに小声で教える。 「書類挿(はさ)みですね。大切な文書をはさんで守るための道具です。旦那さまもよく使っておられますが、これはずいぶん小さいです」 「じゃあ、この中に依頼書か何かがある、ってワケか」  つぶやきながら、ハリアーが書類挿みの綴じ紐を引いた。だが緋色の結び目は緩まない。 「あれ? ほどけないぞ」  よくよく見れば、綴じ紐の結び目は、桃色の蝋で固めてある。  何かの封印だろうか。      ハリアーとプリモは顔を見わせた。  難しく口元を結んだハリアーが、眉根を寄せて思案に暮れている。  彼女も何か引っ掛かりを覚えているのだろう。  唸ってうつむくハリアーの耳に、ヴァユーが無感情に囁く。 「何をためらっている? “流星雨のハリアー”。 私を容易く組み伏せたお前に免じて、せっかく依頼の秘密を明かしてやろうというのに。それとも……」  ヴァユーの表情が微妙に崩れた。  何か小馬鹿にしたような、皮肉な笑みが口元に浮かぶ。 「お前は字が読めないのか……?」 「何おう!?」  ヴァユーに嘲笑され、ハリアーの脳天が瞬時に沸騰した。  キッと顔を上げた彼女が、薄笑いのヴァユーを睨み付ける。 「バカにするな! あたしは剣士だけど、この大陸で使われてる文字くらい、全部読めるぞ!」  怒鳴るが早いか、彼女は書類挿みの綴じ紐を思いっきり引っ張る。  即座に緋色の紐はぴんと音を立てて真っ直ぐに伸びきり、桃色の蝋は細かく砕けて四散した。  そしてハリアーが、封印の解けた書類挿みを両手で開け放つ。  二つ折りの革に挟まれていたのは、一枚の羊皮紙だ。  ベージュ色のその紙面には、一行の共通文字と、五色に彩られた山の絵が描いてある。 「何だ? ヘタな絵だな。ヴァユー、お前が描いたのか?」  ハリアーの言葉どおり、描き付けられた山の筆致は粗雑で、どうお世辞を言っても平凡以下、としか表現のしようがない。  だが冷淡な表情を浮かべたままのヴァユーが、逆に聞き返してきた。 「どうだ? お前の知りたいことは書いてあったか?」  羊皮紙に目を戻したハリアーが、共通文字を口に出して読み上げた。 「“おん・まー・にー・ぱー・めー・うん”? 何だコレ?」  胡乱な眼差しをヴァユーに向けようとしたハリアーだった。  だが、彼女の目は、羊皮紙の一点を捉えて微動だにしない。まるで羊皮紙が、ハリアーの視線をがっちり掴んでいるかのようだ。  ハリアーの奥歯が、ぎりぎりと鳴っている。  書類挿みを持つ彼女の両手も、硬直したまま小刻みに震える。 「ハリアーさん……?」  只ならない様子で立ち尽くすばかりのハリアーに、プリモはそっと聞く。  だが、ハリアーから返事は戻らない。身を強張らせ、山の絵に囚われたままだ。 「うっ、動けない……!?」  それだけ呻いたハリアーの肩が、びくんと揺れた。驚愕に見開かれた彼女の目が、仰ぐように上へ向く。 「山が崩れる……!?」  女剣士の怯みの声を聞き、プリモはハッと気が付いた。  ……幻覚を見せられている!?   たぶん、崩れてくる岩山の幻……!  しかし、こういう場合の対処法だけは、プリモも教わっている。  万有術師たる、主人のメヴィウスに。  独りこくりとうなずき、プリモはハリアーの正面に立った。  そして茫然とした顔で仰け反るハリアーの両肩に手を置くと、強い口調で呼びかける。 「数をかぞえて、ハリアーさん!」 「え?」  虚ろな眼差しで生返事のハリアーに、プリモは重ねて強く求める。 「深呼吸して! さあ早く!」  覚悟を決めたのか、乱れた息を浅く整えたハリアーが、数を口に出し始めた。 「いち、に、さん、し……」  ハリアーの口ずさむ勘定が進むにつれ、だんだんとその視線も定まってくる。  そうして十四まで数え上げたところで、ハリアーがぶるっと首を振った。  唇にも血の気が戻り、体の硬直も解けたようだ。  立ったまま、ハリアーががっくりと両膝に手を付いた。  視線を地面に注ぎ、はあっと大きな吐息をつく。  そんな疲れ切ったハリアーに、プリモは静かに声をかけた。 「大丈夫ですか?」 「ああ、大丈夫」  それだけ答え、ハリアーがバッと体を起こした。  大きな胸を反らせて身構えた彼女は、全身から怒りの熱気を噴出させて、地面も揺らす大声を張り上げる。 「おいヴァユーっっ!!」 「ここだ」  冷淡な答えが返ってきた方へ、ハリアーが勢いよく向き直った。  ハリアーとプリモから何十歩も離れた草の上に、刺叉を担いだヴァユーが立っている。  何事もなかったかのような、飄々とした表情を湛えつつ。  ハリアーが、ありったけの怒りを載せて睨み付け、吠えるように大喝した。 「戦士が魔術なんかに頼るな! この軟弱者っっ!!」  下草をも震わすハリアー渾身の罵声。  だがヴァユーに動じた様子は見えない。 「さすが、見上げた矜持だ。“流星雨”と二つ名を取るだけはある」  賛辞を口にしつつも、ヴァユーは諧謔的に肩をすくめた。 「今回の標的は名立たる魔術師、しかも龍(ドラゴン)だぞ。何の準備もなく出向いてくると思うか? まあ、その咒符をお前に使うことになるとは、計算外だったがな。それに」  彼はハリアーの脇に立つプリモに目を移した。 「それにあの咒符が、使用人などに破られるとは、思いもしなかった。まさか使用人が『数数(かずかぞえ)』を知っているとは、やはり黒龍の塔は一筋縄ではいかない」  一瞬天を仰いだヴァユーが、再びプリモに視線を注ぐ。 「主人に伝えろ。『借りたものはきちんと返せ。延滞期間はもう三年だ』、と」 「どういうことだ?」  怒りよりもほんのわずかに好奇心が優ったハリアーが、それでもきつい口調で問い詰めた。  しかしヴァユーは答えない。  くるりと向けられた彼の背中から、無感情な声が飛んできた。 「また改めてお邪魔する。もう魔力は抜けて使えないが、その咒符はお前たちにやる」  それだけ言い残し、ヴァユーは潅木の間にするりと姿を消した。 「あ、待て! この野郎!」  だがハリアーの悔しい怒声は、木立の合間に空しく消えていった。  しばらくの間、ぼんやり立ち尽くした彼女だったが、やがてがっくりと肩を落とし、プリモに向き直った。  手の中の書類挿みをプリモに手渡しながら、女剣士が感謝と賞賛の眼差しを注いでくる。 「あー、さっきはありがとう。ヘンな山崩れの幻に捕まって。ホント、助かったよ」  ハリアーの言葉と笑顔を受けて、プリモは深い充足感が胸に広がるのを覚えた。  ハリアーの役に立てたというささやかな喜び、それに主人メヴィウスへの感謝だ。 「『魔術幻影に巻き込まれたときは、何も考えずに数をかぞえろ』、との旦那さまのお教えです。お役に立てて、幸いでした」 「は? 何でそんなのが効くの?」  疑問符の張り付く奇妙な顔で、ハリアーが目を白黒させている。  だがプリモ自身も、ハリアーに説明できる知識を持ち合わせていない。 「さあ……。理屈までは、教えられていませんから」  口ごもったプリモはうなだれた。  ハリアーへの申し訳なさと、メヴィウスへの針先ほどの疑念が、胸につかえたプリモだった。  しかしプリモは、すぐに顔を上げた。  わずかな陰りを内心に残しながらも、ハリアーに健気な笑顔を浮かべて見せる。 「塔の中へ戻りましょう、ハリアーさん。わたしのお部屋で、お茶をお淹れしますので」 「ああ、ありがとう。ちょっと疲れちゃったよ」
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