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第三章 そして出発
一
その夜更け。
プリモはこの日の家事をすべて終えると、ハリアーと一緒に自室へと戻った。
丸いテーブルに向かい、椅子に跨ったハリアー。
何か意味ありげな、自信満々の微笑を湛えている。
椅子をハリアーに譲ったプリモは、ベッドの縁にちょんと座った。
プリモの横には、あの魔術師ぬいぐるみも、ちょこんと鎮座している。
「さて」
と一言おいたハリアーが、大きな布包みをどさっ、とテーブルに載せた。
「その中には何が入っているんですか?」
さすがのプリモも好奇心を抑えきれず、彼女は楕円の瞳孔をテーブルの包みに注ぐ。
プリモの質問に答える代わりに、ハリアーもすぐに包みをほどき、中身をテーブルにの上に並べ始めた。
最初にハリアーが取り出したのは、大きく平たい紙の箱。
彼女は椅子から腰を上げると、箱の中から一着の服を取り出して、プリモに掲げて見せる。
「どう?」
今ハリアーが手にしているのは、ペイルブルーのブラウスと、コバルトブルーのノースリーブワンピースだ。
やや斜めにカットされたショルダーにシャープな襟元。
それに胸元を飾る、銀で縁取られた象牙のボタンが愛らしい。
この塔の中には存在しない綺麗な服を前に、プリモも素直に瞳を輝かせた。
「素敵な服ですね」
顔を綻ばせたハリアーが、ブラウスとワンピースを椅子の背もたれにそっと掛け、別の箱から一足の靴と鎖編みの太いベルトを取り出した。
靴は踵の低めな白いパンプス。象牙と銀の留め金が付き、お洒落な品であるが、決して歩きにくそうではない。
一方ベルトは精緻な銀の鎖を束ねた、幅広の逸品。
さすがのプリモも、テーブルの品に憧れを禁じ得ない。
つい熱い眼差しを注ぎつつ、プリモは素直な疑問を口にする。
「あの、これはどなたがお召しになるんですか?」
これを聞き、ハリアーは至極当然そうな表情でプリモを正視した。
「決まってるじゃない。プリモだよ」
「わ、わたしですか?」
思いがけないハリアーの答えに、プリモは喜びよりも戸惑いを覚えた。
何を言えばいいのか分からないまま、目を白黒させるばかり。
言葉の詰まったプリモを見て、ハリアーが笑う。
「他に誰がいると思ってた?」
からかうような言葉を寄越し、ハリアーがワンピースを小脇に抱えてさらに続ける。
「プリモの詳しい寸法が分からなかったから、大体で選んで買ってきちゃったよ。ホントは仕立屋に頼みたかったけど、時間がなくて」
変に恨めし気なハリアーの半眼が、ふとプリモの胸を捉えた。
「あんたって、地味に胸おっきいから。キツかったらごめんね」
ハリアーの目付きが、何やら不穏当になる。
獲物を狙う猛獣のような手つきも、どこか怪しげだ。
ベッドの上でたじろぐプリモを見つめ、じりじりとハリアーがにじり寄ってくる。
「ほら、そんな悪趣味な服なんか脱いで脱いで」
「あ、あの、ちょっと、ハリアーさん?」
愛想笑いを浮かべ、後ずさりするプリモ。
そんなプリモに、それっ、とハリアーが跳びかかった。
「っあ!?」
いとも簡単に、プリモはベッドの上に押し倒された。
あれよあれよと言う間もなく、メイド服を剥ぎ取られ、滑らかでメリハリの効いた、プリモの象牙色の肢体が灯火の下に露わになる。
しかしプリモの豊満な胸も、キュッと締まった腰も、それに張りと弾力のあるお尻まで、すぐにハリアーの手で新品の服に覆い隠され、足も真新しい靴に押し込まれた。
「一丁上がりっ」
高らかに宣言したハリアーに手を引っ張られ、真新しい装いに包まれたプリモは、ベッドから床へと降りた。
メヴィウスに創られてこの方、プリモはこんな上等な服も靴も、一度も着たことがない。
戸惑いでいっぱいのプリモだが、初めて袖を通した上質な布地は、この上なく心地いい。
奇妙な落ち着かなさと、柔らかな気持ちよさが複雑に入り乱れ、プリモはベッドの前に立ち尽くす。
彼女から三歩の離れて立ったハリアーが、プリモの全身を眺め回して何度もうなずいた。
「いいね。胸だけはちょっと心配だったんだけど、ピッタリみたいでよかった。よく似合うよ」
「そ、そうですか?」
ハリアーに誉められて、プリモもほっと安心した。
ちょっぴり気恥ずかしさを覚えつつ、彼女は控えめな仕草で自分の体を見回す。
普段のメイド服よりも、体のラインはくっきり映る、気がする。
「プリモはいいトコのお嬢様、あたしはその護衛、ってところかな。明日はそれ着て行こうね」
そんなハリアーの言葉に続いて、プリモの肩に何かがふわりと被さった。
ハッと頭を動かすと、肩に掛かる純白のショールが視界に入った。
割と厚手だが、重さはほとんど感じさせない。
これもまたかなり高価なものなのだろう。
「あとはそれを羽織っていってね」
満足そうなハリアーの視線を浴びながら、ふりふりと自分の姿を眺めまわすプリモ。
はにかみとちょっぴりの喜びが、じんわりと胸の奥に湧き上がる。
この服を着て見せたら、旦那さまは喜んで下さるだろうか?
ほんの一言だけでも褒めてもらえたら、すごく嬉しいけれど……。
ハリアーが椅子に腰を下ろし、すらりと締まった脚を悠然と組んだ。
「今着てる服は、全部プリモにあげるからさ」
そんなハリアーの素っ気ない言葉が、夢見心地のプリモを現実に引き戻した。
プリモは立ったまま首を横に振り、ハリアーを見つめてキッパリと主張する。
「いけません、そんなこと。こんな高価な服を頂くなんて」
だが、へっへと笑うハリアーは、取り合わない。
「いいのいいの。宿賃の代わりさ。メヴィウスに払うより、ずっとマシだよ」
椅子の上のハリアーが、悪戯な表情を浮かべてプリモを見ている。
だが人懐っこそうな笑顔に映るものの、彼女の紫紺の瞳に宿る光は強気で挑戦的だ。
何を言っても聞きそうにない。
とは言え、分をわきまえたつもりのプリモだって、簡単に引き下がるつもりはない。
プリモは控えめながら姿勢を正し、ハリアーに凛と主張する。
「いいえ、この塔は旦那さまの持ち物で、わたしの物ではありませんから。わたしがハリアーさんから宿泊代を頂くのは、正しくありません」
「をを? 理屈は合ってる」
むう、と一言洩らしたハリアーは、うつむいて口をつぐんだ。
何か思案を巡らせる様子の剣士の顔を見て、プリモは後ろめたさを覚えた。
せっかくのハリアーの厚意を拒絶してしまったのは、誤りかもしれない。
良心の呵責を覚えたプリモがうなだれたとき、ハリアーの明るい声が聞こえた。
「よし、じゃこうしよう」
プリモが顔を上げると、ハリアーが先と同じく悪戯な表情を見せている。
「とりあえず、その服は貸してあげる。プリモのメイド服は仕事着だから、遊びに行くときに着るのは正しくないんだ。明日はそれ着て行くんだよ」
「分かりました」
納得のプリモがうなずくと、ハリアーがさらに続ける。
「で、バザールから帰ってきたら、その服をどうするかは、メヴィウスに決めてもらおう。アイツなら正しい判断するだろ。それでいいかな?」
「はい」
ハリアーの言い分に説得力を感じ、スッキリしたプリモは、大きくうなずいた。
それに応えて、ハリアーも小気味よく声を上げる。
「よし、決まり」
にっ、と笑ったハリアーだが、椅子の上からため息混じりの苦笑を洩らした。
「それにしても、プリモもマジメで強情だねえ。こんなの大したことないんだから、ヘンな遠慮されると、却って気持ち悪いよ」
「ごめんなさい」
二度目の呵責にうなだれたプリモの肩が、ぽんと叩かれた。
顔を上げると、目の前に腰を上げたハリアーの笑顔がある。
「ま、いいさ。そういうマジメなプリモだから、メヴィウスも安心して留守を預けるんだろうからさ」
「あ、ありがとうございます」
プリモが感謝の思いを胸に深々と頭を下げると、ハリアーは苦笑とともに片手を軽く振った。
「やめてよ、気持ち悪い。あたしとプリモの仲じゃない」
すぐにプリモは、地味なメイド服に戻った。
彼女はハリアーから渡された衣装一式を箱に戻すと、ストーブからポットを取った。
程よく湧いた湯で、ハリアーに香り立つハーブティーを淹れる。
「どうぞ」
「ああ、ありがと」
軽く手を振るハリアーを見ながら、プリモは再びぬいぐるみと並んでベッドに座った。
そして期待と不安の交錯した視線をハリアー注ぎ、どこか弾んだ口調で短く尋ねた。
「ハリアーさん、『ありおすとぽり』、って、どんなところなんですか?」
バザール行きは彼女が懇願した話だが、当のプリモは、この黒龍の塔以外のことには無知の極みと言っていい。
それを充分に自覚している彼女の胸中には、ハリアーに教えて欲しいことがうず高く積み上げられている。
ハリアーが悠然と脚を組みつつ、期待して待つプリモにゆっくりと答えた。
「アリオストポリは、アープっていう国の都だよ。アープは交易で成り立ってる小さな王国さ。ちょうど明日は月に一度のバザールが出る日なんだ。アリオストポリの中央広場にね」
「『ばざーる』っていうのは、市場のことですよね?」
「そうだよ。それは知っているんだね」
「はい。旦那さまからも、他の方からも、お話だけは聞いています。でも」
うなずいたプリモは、翳の差した瞳を一瞬テーブルに落とした。
しかしすぐに顔を上げた彼女は、再び向かいに座るハリアーを真っ直ぐ見つめる。
「わたしは一度も市場に行ったことがないので、何も知らなくて。『ばざーる』って、何でも売っているんですか? 魔法の品々でもあるんですよね?」 「たぶんね」
ハリアーも軽くうなずく。
記憶をたどっているのか、紫紺の瞳が斜め上の虚空を探っている。
「アープのバザールは方々からいろんな連中が集まってくるから、どんなものでも売ってるよ。食べ物でもアクセサリーでも、武器でもね。でも奴隷の売買は禁止だってさ」
「『どれい』って何ですか?」
素直にプリモが疑問を口にすると、ハリアーは白い歯を見せ、にやっと笑った。
何か意味ありげな、大人の笑みだ。
「所有されて働く人々さ。身体を使ってね。この大陸の国には、ない仕組みだけどね」
これを聞き、プリモはにっこりと無邪気に笑う。
「わたしと同じですね」
「あー、それはちょっと違うと思うけど」
それから三十分ばかりおしゃべりしたところで、ハリアーがおもむろに腰を上げた。
「そろそろあたしは寝ようかな。明日は早いからね」
両腕を頭上に挙げて、大きく伸びをするハリアー。
小刻みに体を震わす彼女を見ながら、プリモも立ち上がった。
プリモは澄み切った瞳に感謝と好意を一杯に浮かべ、深々と頭を下げる。
「今夜は本当にありがとうございました。明日も、よろしくお願いします」 「だから他人行儀はやめてってば。まだまだ厄介になるのは、あたしの方なんだから」
ハリアーは、まだ何か入っている様子の包みを小脇に抱え、照れ臭そうに何度もかぶりを振る。
「じゃ、おやすみプリモ。明日は夜明けには出発するから、それまでよく眠っておいてね」
いっぱいの期待と、一抹の不安を胸に抱き、プリモは強くうなずいた。
「はい。ハリアーさんも、ゆっくりお休み下さい」
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