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僕はいつからか探し求めていた。
暗い空、グレーの雲、翳る人並み、降り止まない霧雨。
そんな退廃的な街並みの中で、僕たちは愛し合い、溶け合っていた。
僕が求めているのはその……。
君との唇の味。
○●○
「朱里あかり!ちょっと来い!」
低く、それでもピンッと張ったこの声色。
僕が最近最も苦手としている音の周波数。
永谷桃次郎ながやとうじろう。
その声の持ち主の名前。僕の職場の上司であり、憧れの人なのだが…。
「なんじゃあこの腑抜けた生地は!テメェはこんなことにまで手ぇ抜くようになったんか!あぁ?!」
恐喝とも言える怒声が、小さなキッチンホールの中で響き渡る。
彼が指差す先には、先程僕がオーブンにかけていたシュークリームの生地。
ふわふわと膨らみ、気恥ずかしそうに皺という衣装を纏ったそれは、一見どこにでもある普通のシュー生地に見える。
だが、彼は気付くのだ。些細なお菓子の不安定さに。
僕が黙って突っ立っていると、それにさえ苛立ってしまうみたいで、ガツンと思い切り銀のキッチンテーブルの脚を蹴り上げる。
「ええけえ(いいから)さっさと作り直せや!お前最近たるんでるぞ!」
1つ生地を掴み上げ僕に投げつけてくる。正直、僕にはその生地の何がいけないのか全く分からなかった。
けど、彼が投げつけた生地が僕の頬に当たった時、すべてわかった。
脆すぎたのだ。
これだとクリームが入ったものをお客様が食べた際、お客様の指圧で生地の一部が破れてしまう恐れがある。
なかなかどうして…。
彼はどうして分かるのだろう…。
僕はもうここで働いて8年になる。
お菓子作りだってずぶの素人から始めたにしては上手く出来ているはずなんだけど…。
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