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「三野宮さんて、お医者さんなんですか?」
「ん?」
脱衣所でユミに尋ねられた。
「先ほど杏林(きょうりん)の話をされてたので。そうなのかなあ、と」
髪をまとめ上げる手を休めて、まあね、とヒイカは肩を竦めてみせる。あえて職業まで教えていなかったのだが、東洋史を学ぶだけあって中国の故事には強いようだ。
――昔々、廬山(ろざん)にいた仁医(じんい)董奉(とうほう)は患者から薬代を受け取らなかった。その代わり重い病が治った者からは五株、軽い病が治った者からは一株、記念に杏子(あんず)を植えさせたところ、あたりは鬱蒼とした果の林になったという。ゆえに古来より、医者を杏林と呼ぶようになった。
つまるところ、ヒイカのことを仁ある医者だ、とミヤは評したのだ。
「こんなナリだから、医療従事者には見えないでしょうけどね」
腰まで届く淡い金色の髪、左肩の前後には鳥兎(うと)のタトゥ、ぞろりと耳に連なるピアスの穴。実務において職業意識が欠けているとかいう意見が多勢を占めることを承知のうえでヒイカはこういう姿をしている。反骨によるものではない。あくまでも信念だ。
医として評価されるべきは外面にあってはならず、公明正大、医の果にのみ顕れなくてはならない。そう思っている。それがわからない娑婆気(しゃばけ)の連中にはいわせておく。勝手にしやがれ。それだけだ。
ユミは曖昧に微笑んでいる。
「何科の先生なんですか?」
「こう見えて、小児科医なのサ。頑是(がんぜ)なく愛すべき、おこちゃまが相手なのだ」
すっぽんぽんでしたり顔をされても恰好がついていない。
堅牢そうな脱衣所を抜けると、サークル〈霧の城〉の先行隊であろう、かまびすしい女たちの嬌笑が湯屋に反響してきた。
ユミの姿を見て取り、仲間のひとりが、おーい、と湯煙の向こうで手を振る。
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