孫悟空殺人事件 ~四つの数字~

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「おさる、遅いよー」 「ごめんごめん、迷っちゃって」  夏でも谷を伝う雨風は冷たい。てきぱきと身を洗い清めてから、白い湯煙においでおいでをされるかのように、効能〈美肌〉の誉れ高い濁り湯にざぶんと浸かった。  おお、極楽だわい。  思わず、ヒイカののどから歓喜の唸りが出る。 「三野宮先生。声出して入浴するの、おじいちゃんみたいですよ」 「いいのよう、放心こそ温泉の醍醐味。ここは桃源郷の秘湯なんだから気にしないの。山河を渡る風にとっくりと身を委ねるべし」  達観している。旅の恥はかき捨てというべきだろうか。  まったりと心を飛ばすヒイカを、他のメンバーが興味深そうに眺めていた。その目顔が一様に「いったい誰なの、この妙な人は?」と尋ねたがる心境も宜(むべ)なるところだ。ユミは微苦笑しながら事情を話した。 「なるほどです。迷子のおさるに配慮してくださるとは、どうも」  湯船でぺこりと会釈したのは三谷一枝(みたにかずえ)だ。理学部の二年生。すっきりと短い髪と衒いのない瞳は利発そうな印象を人に与えさせる。話を聞くなりすかさず謝意を表すところ、なかなかの行動派なのかもしれない。 「先ほど、おさるの可愛いらしい絶叫を小耳にしましたけど、うちの問題児がなにか粗相でもしましたか?」 「もう、やめてよね。絶叫だなんて」  ユミがぷりぷりしても、にやついているのは吉川碧(きっかわあおい)。工学部の二年生だ。顔立ちがはっきりしていて、ふくよかに潤うくちびるが色っぽい。白い姿態をつるりと撫でる仕草といい、同性のヒイカでさえドキリとする艶笑といい、どうにかしてミヤの目から遠ざけたくなるタイプ。やたらとセクシーなのだ。  けれども、こういうコケティッシュな才能はちょっぴり羨ましいかもね、と思うヒイカさんである。もし体得していれば、思う存分、ミヤをからかえるのになあ。  湯殿の仕切りの向こうで、ミヤの背筋はぶるりと震えた。――なんだろう、いまの悪寒は? 「足元にいきなり蛇が出てきたのよ。悲鳴はそのせい」 「げえ。……マジで?」  嫌そうに口の端を歪めたのは喜内夏実(きうちなつみ)という。法学部の二年生。上目遣いで、とかく視線がよく動く。浅黒い丸顔と小柄な猫背のおかげか気弱な栗鼠みたい。おそらくは内弁慶なのだろう。ヒイカが女湯に現れるまでは陽気なおしゃべりに興じていたから。
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