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空腹と満腹の間柄は譬えるなら砂時計に似ている。
生命である以上、食慾(しょくよく)はバイオリズムだ。砂時計の上と下をよしんば表裏一体の相対性と見做すなら、砂が溜まれば空腹は満ち、砂が落ちれば満腹は空く。常に満ちて引いての波がある。食に時の振り子が関わるのは必定といえるだろう。そのひょうたん型の外見に鑑みても、細いくびれのある砂の器は――比較的スリムな女性に限られるが――人のウエストに見えなくもない。
食べないと生きてはいけない。
時に命は抗えない。
ところがどっこい、この砂時計の見立ては〈おやつは別腹〉という、頼もしくも小憎い説にものの見事に論破される運命にある。いかに飽食を期そうともまだまだ腹に入る余地があるならば、レトリックは食後のスイーツを前に甘んじて敗北を喫するしかない。際限ない食慾を前にすれば、理屈さえまかり通らないのだ。
(ぼくは腹が減った!)
さりながら、いまはそれどころではない。構っていられない。
レンタカーの車中、ミヤはうねる道路の先を集中する。急がなくては。先ほどから山の斜面から小石がちらほらと転がり落ちてくる。山崩れの兆しだ。
ましてや久しぶりの運転なのだ。大雨で視界の悪い峠道を進んでいるさなか、他のことに気を取られるわけにはいかないというのに。運転席の隣では――〈悪食〉と〈惰眠〉をこよなく愛するケモノが間食を所望してうるさい。
(こら、トノ、ぼくの話を聞いてるのか)
運転手の指にちょっかいを出す猫の昂りをなだめるため、その痩身を助手席のヒイカが胸に抱えた。ちんまりと丸い毛むくじゃらの頭をよしよしと撫でる。
「バケ、うんと甘いワッフル食べる?」
(もちろん!)
この同乗者たちは甘いものに目がない。慣れ親しい甘酸っぱい香りがするのは、トッピングにする林檎のハチミツ漬けの瓶が開いているからなのだろう。ヒイカは『くまのプーさん』もさもあらん、大のハチミツ好きだ。
(ねえ、トノ、食べていいでしょ?)
ミヤはちょっと鼻白んだ。
「それほど甘口が恋しいか。こいつは一般論だが、猫の舌は味蕾(みらい)の数が少ないと聞く。甘味は感じづらいらしいが」
(ふん。どんな味を好もうが、ぼくの勝手でしょ。猫それぞれさ! なんでもかんでも連中のおべんちゃらを基準にしないでほしいね。ニンゲン本位の科学原理主義はこれだから嫌なんだ)
口の減らない奴、とミヤは眉を寄せた。
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