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勾配のきつい山の斜面に沿って急カーブを曲がる。眼下の端に濁流の走る深い渓谷が見え、ステアリングを握る手に思わず力が入った。――旅は道連れという。だが、婚前旅行でもろとも谷底へ真っ逆さまは御免だ。
(さあ、早く!)
「わかった。急かすな」
ミヤはしぶしぶ諾う。
「――許す」
たちまち、バケはぺろりとスイーツを平らげた。食後の舌舐めずりが終わって満足したのか、ヒイカの膝の上で丸くなる。腹くちくなって眠たくなるのは仕方ないが、その至福に浴するのにも限度がある。
ヒイカの膝枕はバケの特権なのだ。いっかなその場所を明け渡せとミヤが説いても、頑として耳を貸さない。なぜなら、そこはバケの〈縄張り〉だからだ。たとえ誰が相手でも侵略は許さない。当然だろう。
ミヤは溜息をついた。
「……大体、八つ時に食べるからこそ、おやつというのに。まだ二時にもなってない」
(猫に時間感覚があると思う?)
今度こそミヤは完全に閉口した。
両手が空いていたら、バケの顔面を〈おにぎりの刑〉に処しているところだ。ヒイカは隣でくつくつ笑っているし。
峠の難所を抜けたところで雨が弱まってきた。地図を眺めるヒイカの指示どおり山間を進むと木立の向こうは雲の裾が割れ、秘境の深山幽谷に夏の日差しが降りていた。目的地の投宿先に辿り着くと、珍しい眺望が一行を待っていた。
晴雨のまにまに注ぐ光の梯立てに銀の線が散じて輝いていた。
二階建ての旅館の手前に、ここの御神木といえそうな大きい楡(にれ)がある。その樹の周りを明るい日向がぽっかりと包み、葉を雨粒に濡らして優しい木霊を育んでいた。狐の嫁入りと年得た楡の組み合わせは神秘的で、それは絵になる風景だった。まるで神さびる大樹の命そのものが燦と煌めくようではないか。
これに黙っていられるヒイカではない。
シートベルトを脱ぎ捨て、着の身着のまま大自然に飛び出した。駐車場に敷かれた玉砂利を蹴って大樹の根元まで駆け寄り、そしてヒイカは佇んだ。
ミントグリーンのシャツの背に流れる、金色の長い髪が陽に濡れて艶やかに光る。表情はこちらからは窺えないけれど、うっとりとしているのだろう、とミヤは想像する。そういえば昔、天気雨に打たれるのが好きなのだ、とにこやかに話してくれたっけ。自分が生きていることを実感できるから。
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