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「もちろん食事も楽しみだけどね、いっとうの目的はここの温泉だから。あなた、すっごい肌が綺麗だもの。湯の効能はばっちりみたい」
ここの温泉は〈美人の湯〉として有名だった。
連日の悪天候のさなか遠出して鄙の温泉宿までやってきた理由は、ヒイカの「すべすべになるぞ!」という熱烈な要望があったからだ。たまには休暇もいいだろうということで、ふたりの仕事の予定を合わせてとんとん拍子に旅行の日程が決まったのである。
あけすけなヒイカの褒め言葉に、チカセが頬を染めて恐縮していると、
(ねえ、ぼくを部屋に入れて!)
日課の散歩を終えたのだろう。窓の外でバケは空中にちょこんと座り、前脚をガラスに押し当てている。その要請にミヤが小さくうなずいて窓を開けてやると、バケは虚空を蹴ってミヤの胸に飛びこんできた。
(やっぱり森林浴はいいよね。とっても気のいい連中ばかりだったよ。トノもぐるりと歩いてくれば? むさ苦しい都会と違って、ものすごーく空気がさっぱりしてるんだ)
ミヤの首筋にぐりぐりと頬をすり寄せて、
(でもね、トノの大嫌いなヘビがうようよいるから気をつけたほうがいいかもね。できれば、ぼくみたいに宙を歩くことをおすすめするよ)
ヒイカがぷっと吹き出した。突然の失笑にチカセが眼鏡の奥でぱちつかせたので、ヒイカは執り成すように手を振る。
「気にしないで。あたし、急性げらげら症候群なもんで」
えせ病名だが、自己分析としては的を射ている。ヒイカは実によく笑う。
「チカセちゃん、このあたりの森はどんな野生動物がいるの?」
聞くならく、やはり蛇は多いらしい。たまさか熊も出るのだとか。
バケの狭いおでこを撫でてから、ミヤは相棒の身体をひょいと放り投げた。残念だが散歩はすまい、と心に誓うミヤであった。
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