孫悟空殺人事件 ~四つの数字~

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  3   仲居見習いが役目を終えて辞去すると、気安い旅情に包まれた。のんびりしよう。旅行鞄から今年一番ともっぱら噂の本格推理小説を取り出し、ミヤはいそいそと栞を引く。その左肩にバケが前脚をだらりと垂らして、ちょこなんとぶら下がる。両名とも本腰を入れて読む体勢だ。  ミヤとバケは本の中でも特に推理小説が好きだった。いつだったかエラリー・クイーンの『国名シリーズ』を一緒に読み、かの〈読者への挑戦〉に出くわしたとき、バケだけはきちんと犯人の名を指摘していた。ミヤは犯人を当てた例(ためし)はない。 (トノ、読むの遅い。早く次のページめくってよね)  わあわあ囃されても慌てず騒がず、ゆっくり通読していると、紙面にぬうっと影が落ちた。浴衣姿の婚約者が手を腰に当てて仁王立ちをしている。 「旅先でまで読書たあ、粋じゃないわねえ。どういう料簡でい」  手から文庫を取り上げ、ヒイカは有無をいわせずミヤのドレスアップを施した。これを俗に〈かかあ天下〉という。 「やっぱ、温泉宿では浴衣が正装よねえ。うんうん。ミヤは撫で肩だから着流しが似合うんだからね。さっそく湯浴みに行きましょ」 (ちょっと待って)  バケがうるさそうに尻尾を振った。鼻先には、読みかけの文庫がある。 (留守番のあいだ、先に読んでいい?) 「ああ、いいよ。――許す」  心得たものでバケは両の前脚を器用に使い、本を開いた。たどたどしく目的のページに辿り着くと、よく輝く目で活字を追い始める。表情は真剣そのもの。  ヒイカはくすくす笑いながら、ミヤの背を押して『月の間』を出た。  館内は人の気配が感じられないほど静かだった。  宿の二階は廊下を中央に、北の山側を『花の間』『鳥の間』、南の谷側を『風の間』『月の間』と名のある部屋が四つある。西の突き当たりにも二部屋あるが、そちらは客間として使われていないようだった。階段は館の東にひとつきりで、場所は『鳥の間』と『月の間』の隣である。  古めかしい木造の建物だった。止まれ、歩めど、いっそ不思議なくらい家鳴り(やなり)がしない。幽玄である。怪異の息遣いが聞こえてきそうな雰囲気だ。
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