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天狗は亀に乗って
虫の羽音と間違うほど弱々しい声がする。
名前を呼ばれたように思い、俺は足を止めた。
「イッセイ、清水一成。おぬしは『オハナ』という娘を知っておるな」
夜明け前、白い息を吐きながらジョギングしている時のことだ。
三月になりたての東京は、桜の花にはまだ早い。
午前五時半、手漕ぎボートが浮かぶ池を一周する小径には人気がなかった。
八尋愛花は俺の彼女だ。
なんか文句あるか、と左右を見回し、声の主を探したが誰もいない。
「イッセイ、こちらだ」
俺の足元からしゃがれ声が上がってくる。
ふと視線を落とすと、土手の草むらに甲長30センチほどの草亀がいた。
いくら周囲を見渡しても、声の主が見つからないのは当たり前だ。
呼んでいたのは亀の甲羅にちょこんと座っている、お茶のペットボトルほどしか背丈のない天狗だった。
「話しかけたのはあんたか」
俺が尋ねると、ちびの天狗は鷹揚にうなずいた。
先ほどの声は幻聴ではなく、目の前の天狗も幻覚ではないようだ。
本当に生きているかどうか確かめようと、俺は道端にしゃがみこむ。
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