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成人式を終えて、社会に出て、夫と新しい家庭を築く身になった今も、まだまだ私は、小さな子どもだ。こんなとき、どういう態度をとればいいのか分からない。肝心なところで頭が回らない。
「ごめんね」
「……いや、私のほうこそ、ごめん」
お決まりの、何に対してかよく分からない謝罪をお互いにしてみた。抗がん剤で苦しいはずの母よりも、私のほうがなぜ、たどたどしくなってしまうのか。
弱っているはずの母よりもずっと、私のほうが頼りない。まだダメだ、早すぎる。今、母にいなくなられては困る。だって私は子どもなのだ。いつまで経っても、母の、子どもなのだ。
「頑張ってよ……お母さん……」
「うん……でも、多分、ね。ごめんね……」
悪いことをしたわけでもないのに謝るあたり、いかにも昭和生まれの日本人"らしい"。きっと、本当の最期の言葉も、ごめんねになるんだろう。確信めいた考えが過ったけれども、それは気付かなかったことに決めた。
「そろそろ、休むわ」
「……」
いいよとも、ダメだよとも言えなかった。ぐるぐるラップでも巻かれたみたいに動かない声帯は、嗚咽だけをただ垂れ流す。バカみたいだ、こんなの。私が泣いてちゃ、母は泣けない。わかっているのに、込み上げてくる悔しさは止まらない。
視線に促されて立ち上がる。小さく顎を引いた母は一瞬だけ私のお腹を見詰め、そして目を閉じた。臍の右側がもぞもぞと動いた。誕生を待つ命と消えゆこうとする命の邂逅は、私の涙腺を更に刺激した。滲む視界は、どこか冬の空に似ていた。
***
網膜に訴えかけてくる青が眩しい。気温や湿度だけでなく、空の色も夏を感じさせるものになってきた。
グレーがかった空に春霞の気配が混じる頃、母は旅立った。嫌な予感は当たり、あの『ごめんね』は結局、私たちの最期のやり取りになった。余命宣告された時期から考えれば、相当、頑張ってくれたことになる。けれど贅沢を言えば、もっと頑張って欲しかった。新しい命と触れ合う時間をあげたかった。
見上げた空は、母の見たがっていた色をしている。胸に迫る暖かさに鼻を啜れば、顎のすぐ下から頼りない泣き声が上がった。
「大丈夫よ、ソラ」
背中を擦りながら話し掛ける。あなたのおばあちゃんとお話ししているの。
スカイブルーのベビードレスが目に染みる。お母さん、夏空になってきたよ。心の内でそう呟き、そして私はもう一度、空を見上げた。
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