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「もう一度ぐらい、見たかったな。青い空が」
病室に入るや否や、母は私に向けてそう零した。
「え?」
その真意がわからず、聞き返す。書面に起こせばたった一文字の疑問符を発する声が、震えていなかったかどうか気になった。
余命いくばくかという話を、本人は知らないはずだ。
胃がんは半年前、まだ葉桜の名残がある時節に発覚した。その手術をしたときには、既に手の施しようがないほど全身に転移していたらしい。
投薬を続けつつ入退院を繰り返してきた。季節は巡り、もうすぐ冬になろうとしている。手術は成功したものの、これほど長く入院を含む経過観察が続いていることで、もしかすると本人も気付いているのかもしれない。
けれど勝手な願いを言えば、最後まで知らずに病魔と闘って欲しいと私は思っている。
希望を抱く気持ちが萎えないようにと、その事実を私は、告げずにいた。
「ね、空って、青じゃないのよ。知ってる?」
「何言ってんの?」
私の聞き間違いでなければ、今しがた、青い空が見たいと呟いたばかりのはずだ。それを否定するかのような発言が続いたことに困惑する。
抗がん剤の副作用だろうか? 思考回路にまで悪さをするとは聞いていない。いくら命があろうとも、母が母でなくなるような事態は避けたかったのに。
「冬場の空はね、青とは少し、違うのよ。グレーが隠れてる」
「……あぁ、季節によってちょっと違う、ってこと?」
「そう。でも、もう私は、夏の真っ青な空を見ること、ないのよね」
空に還るなら、青一色の中に溶け込みたかったな、と途切れ途切れに言って、母は笑った。
そこで私はようやく、転移の事実を隠し切れていないのだと悟った。母も、私が悟ったことに気付いたのだろう。申し訳なさそうに眉尻を下げて、意味ありげに一度、頷いた。
季節の変わり目のように、空気ががらりと変わった。年間通して温度が変わることのない病室で、冷たく厳しい冬の気配が渦巻いた。
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