夜間

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夜間

 学校での生徒とのあいさつは、「こんばんは」だ。  定弘先生は数学の担当だ。午前中に挨拶をしてきた生徒が数学のプリントを埋めなかったので強く注意したら、彼女は過呼吸を起こした。それ以来、彼女は数学の授業中、教科書も出さず、プリントもやらずにへたるようになった。世界史や漢字は得意で、周りの生徒に教えて回る生徒なのに。教頭先生は定弘先生の注意の仕方を責めた。定弘先生は世界史や国語の授業を見に行っていたので、数学への姿勢には何か特有の問題があると感じたが、教頭先生に謝るしかなかった。  授業に教頭が入ることになったが、効果はでなかった。教頭先生が話しかけても彼女は答えない。プリントに取り組むよう指導しても取り組まない。強い言葉で促すと、手が震え始めた。その彼女の姿勢は教頭先生の感情を刺激した。 「あの事件があったせいで、彼女は先生の授業に取り組めないんだ。」教頭先生の顔は厳しかった。「どうしましょう。」丁寧な言葉ではあったが、責めるだけで提案のない教頭先生への定弘先生の口調もいつもと違って強かった。定弘先生は教頭と言い合いになり、再び注意を受けることになる。一方彼女は、次の世界史の時間はいつも通り生き生きと学習し、定弘先生監督の掃除にもきちんと取り組み、帰っていた。それが彼女のペースなのだ。  彼女は周囲に壁を作り、自分の世界で生きている。彼女の世界の言語は定弘先生たちには理解できない。だから世界史の先生であっても、実際は生徒の世界に入れてはいない。彼女は天井まで作っていないので、周囲を自由に見ることができて、自分に関心のあるものや、自分を肯定してくれるものとだけ交わることができる。彼女自身も、彼女の世界の言葉が他の人には伝われないと分かっていた。  アルバイトで見せる彼女と、授業中に見せる彼女は、どちらも本当の「彼女」である。  空を見上げると半月である。定弘先生は、月明かりに照らされた校庭を、一人家路に着いた。
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