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若様、どうかつつがなく。お幸せに
戸を開けて表に出ると手綱を引かれた駿馬と、さらに騎馬数騎が控えております。金覆輪の鞍、厚総(あつふさ)、鞦(しりがい)の赤も夜目にあざやかな駿馬にまたがると、見送りに出た則子にいまひとたび鷹揚にうなずいてみせます。
「若様、どうかつつがなく。お幸せに」
「最後まで若様か(笑う)。ではお婆、いや母様、おさらばでおじゃる。いつの世もまた孝養つかまつりたし。では」
掛け声勇ましく腹を蹴ると駒四騎はたちまち走り出し、瞬く間に闇の中へと消えて行きました。あとに残るは蹄の音が嘘だったような虫の音ばかりでございます。空を見上げればいまにも消え入りそうな二十六の月が寂しげにかかっております。封戸を賜うとは云われてもそのお百姓が疱瘡上りの則子を嫌い、また貧しい貴人と馬鹿にして、ほとんど何の賄いも手伝いもしないことが則子には判っていました。また見廻りの役人とても家持去ったあとでは当てにはできませんし、後任の高嗣を当てにするなど、みずからのプライドから云っても、まして義理から云ってもできることではありませんでした。畢竟女官時代に為輔への仕送りを差し引いて蓄えた和同開珎(わどうかいほう)と、衰えたとは云え我が身ひとつの農作業ばかりが頼りでしかなかったのです。そもそも死を決して庵住居を始めた則子、奇跡的な家持との邂逅と、ここ数年来のその家持から受けた孝養は、所詮夢としか思えませんでした。しかしまだその夢の続きとしてこんどは我息子為輔と会えると思うと、則子の老い身に喜びが走ります。あとひとつきもせぬうちに為輔が来ると家持が云っていました。はたしてそこにはいかなる母と子の再会が待ち受けているのでしょうか。更級ならぬ大野の山に、すなわち姥捨て山に照る月を見るならば、家持ならずとも其の折りの幸を願わずにはおれません。
以上、[張り船扇一擲]「わが心なぐさめかねつ更級や姥捨て山に照る月を見て」前編の仕舞いとさせていただきます。どうか後篇にまた、御臨席たまわらんことを切におん願い奉る次第でございます。まずはこれまで。
【残り僅かな大野の月…これが則子】
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