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木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)
巨匠黒沢明監督作品、名画「夢」の中で彼の名優笠井智衆がこの辺のくだりを演じておりましたですね。これを「玄のまた玄」、すなわち入口も出口も畢竟同じ、としているわけです。死も生も本来同じであると老子は喝破しておられました。「衆妙の門」とは衆が「多くの」となり、妙は「妙なる」と取ります。すなわち多くの妙なるものは、事象は、すべてこの玄の門から起こり来たるのだ、となります。要は森羅万象ことごとくこの玄の門より出でざるものなしとなるわけです。 そのように考えてみれば玄とは宇宙の始まり、ビックバンのようなものですから、すれば森羅万象ことごとくここから始まっているというのもうなずけると思います。さてそれではあらためてなぜ、お年寄りのことを玄冬と云うのか。それは、中国五行哲学に於きましては、冬をただに季節のおわりとするのではなく、季節のみならずすべてをサイクルと見ますから、冬を云うにも春を生む季節ともしているからです。五行哲学の相生(そうじょう)関係は、木(もく)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)であり、そしてそれはサイクルであり、水(すい)は木(もく)を、つまり水は木々をはじめ万物を生じさせるとし、万生みなもとの季節として、決して終りとは見ていないのです。また因みに玄を木火土金水(もくかどごんすい)、宇宙の五元素の内で水(すい)、水に当てております。考えてみれば老いて身体が弱まって行くとき、逆に心はピュア化され原初の玄にもどって行く…ような気も致します。ですから冬は終りでありながら始め、また水に当てた万生復活のみなもとたる玄、その両方をさして玄冬と云うわけでございます。さて、何も中国五行哲学を講釈するために私はここに立ったわけではございません。このあたりのことが当講談の主人公、山科則子においてはどうあらわれるのか、ただにそのガイドラインとでもしたかったがゆえでございます。お待たせいたしました。新大和物語「わが心なぐさめかねつ」後編、これよりの講釈とあいなります。
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