山科則子

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山科則子

[張り扇一擲] さて、時は神護景雲(じんごけいうん)四年西暦七百七十年のころ、九州は筑前の国、大野の里に、山科則子というその年七十二になる老婆が一人侘しく庵を結んで居りました。とても家とは云えないあばら家に、でございます。果たして世話する身寄りもいないのか、もし人がこれを目にするならば他人事とは云え気に掛かり、不憫に思わない者はいないでしょう。さてしかし、この疱瘡病みのあとの残る、今でこそ見る影もない老婆となり果てた山科則子ですが、往年は奈良の都で大伴旅人に女房としてつかえ……ほら、この人ですよ、先程の有名人というのは。(観客の誰か一人を目でつかまえて)御存知ですよね?大伴旅人。え? 知ってらっしゃる。さすが!さすがは講談好きの御歴々、私の目に狂いはなかった。よかった。やりやすい……。えー、もっとも話の主役はその旅人の息子の方、大伴家持の方で、このあと則子の方やの主役として登場して参ります。とにかく、その山科則子。往年は旅人の奈良のお屋敷で、息子の家持の乳母(めのと)として仕え……えー、度々で恐れ入りますが乳母って御存知ですよね?乳の母って書いて、要するに乳母(うば)です、乳母。実母に代って子にみずからの乳を与え、のみならず躾け教育万端を授ける存在でした。ですからどちらの格式あるお屋敷でもこぞって人格に優れた、教養のある、優秀な乳母を欲しがったわけです。逆に云えば大伴氏ほどの名家に乳母として仕えることの出来た人物であるならば、その人品は推して図るべしということです。則子さん、優秀だったわけです。えー、とにかくその山科則子、奈良の都の旅人の屋敷で乳母として仕えながら、同時に佐伯(さえき)輔経(すけつね)と云う方の側室に収まれた方でもありました。要するにこちらは輔経の本当の女房だったわけです。同じ女房でも仕事、司名(つかさめい)としての女房と、現代では奥様方はみんな女房ですから、ひとつお間違えのないように……。
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