則子殿、わしと奈良へ参れ

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則子殿、わしと奈良へ参れ

恵美押勝の乱とは天平宝字八年西暦七六四年、女帝孝謙天皇の不興を買った恵美押勝、別名藤原仲麻呂の起こした乱のことですが、要は女帝をめぐっての男同等の争いに押勝が道鏡に敗れた末のことです。道鏡の魅力が勝っていた?……のかも知れませんが、それはともかく、その道鏡による押勝一党への粛清が続いていたのです。一説によれば四十人あまりが刑死、流罪になったとのこと。則子は自分はともかく、その累が眼前の家持や我子為輔に及ぶのを恐れていたのでした。 「困ったお人じゃ。気にせんでいいと云うに!道鏡と云えど人の子、そなたのような媼までは手にかけまい。そなたのお子、為輔殿も今は石上家の人間、お沙汰はない筈じゃ。そもそもこの地大宰府でそなたに巡りおうた時以来、何度も口繁く、庵住まいなど辞めて我邸に参れと云うに頑として聞かぬ。則子殿、そなたは身を引き過ぎる」 「あいすみませぬ。旅人様以来身に過ぎる御恩をいただいてまいりまして……これ以上、この世に要らぬ婆奴のことでご迷惑をお掛けすることは、この則子、心外のかぎりでございます」 「馬鹿なことを。誰が迷惑をかけているのです?乳母のあなたに孝養を尽くさせぬ方が私にはよほど辛い。世間に後ろ指を指されることになる」 「お許しください」 「婆殿……やはりあなたのお子、為輔殿を気使うか」 「為輔のみならず、若様、あなたのことが……どうかお許しください(泣く)……」 「わかりました。もはや云いますまい。お気を静められよ。それでな、婆殿、実はいまひとつ大事なことを伝えねばならぬ。今よりひとつきの後、私の代わりに大宰府少弐として来られるお方が、実は石上高嗣様なのじゃ」 「えっ!?高嗣様が?ここに……?」 「さよう。のみならず、今は石上家家令のあなたのお子、為輔殿も随行されるとの由、本日都よりの伝令の書の中に、高嗣様自身の手紙としてあった。婆殿、為輔殿が来られるのじゃ、ここに!」
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