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――臭い。本当に本当に臭い。
今日一日中、彼は左隣の席にすわる男の強烈な体臭に耐えてきたようだが、それももう限界みたいだ。
限界を感じた彼は、今日何度したかわからない咳払いをした。
こぢんまりとした、デスクが密集している部屋はうす暗く、唯一の灯りは彼ら二人の真上にのみ存在している。
ほかの従業員はすでに帰宅しているようで、この世界に存在しているのは体臭男と、その臭いを我慢している中年男の二人だけのように感じられた。
もうすぐ日付が変わりそうな時刻のことである。
不意に、横の体臭男が話しかけてきた。
「神喰さん、もうすぐ終電ですけど、進捗どんな感じっすか?」
「あー……。もう帰りますよ、まだ作業途中ですけど」
我慢している男、もとい神喰は欠伸をし、椅子の背もたれに背中を預けながら大きく伸びをした。所々表面が剥げかけている椅子が、ギギギと嫌な音をあげる。
神喰は伸びをした体勢のまま、体臭男に問いかけた。
「そういえば橋本さん、昨日ちゃんと帰宅できました?」
「……終電間に合わなかったので、漫画喫茶に泊まりました。今日はそのままここに来たんですよ」
体臭男こと橋本は、そう言いながら神喰を一瞥した。橋本の目は、ひどく充血していて真っ赤だ。
どうりで体の臭いがきついわけだと、今日いちばんの謎が解けた神喰は同情し、臭いの件は許そうと思った。
神喰は作業途中のデータを手早く保存し、パソコンをシャットダウンした。そして、デスクの上の飲みかけのペットボトルを鞄にしまい、立ち上がった。
「橋本さん、僕、もう帰りますけど。大丈夫ですか」
「あぁ、大丈夫っす。このエラー修正したらすぐ帰りますよ」
橋本は神喰の方を見ないまま、パソコンを操作しながら答えた。橋本のパソコンの画面はエラーを警告する文字で埋め尽くされており、言葉どおり『大丈夫』と受け取るには、いささか疑問を感じる状況であった。
神喰は「手伝いましょうか?」の一言を深く胸の内にしまい込み、「そうですか」と短く答えた。
「橋本さんが最終退出なので、施錠と消灯はお願いします」
「あい」
橋本はやはり、神喰のほうを見ないで、気のない返事をした。
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