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「あら、意外と早かったのね。」
カメラのシャッターを押そうとしていた手をそのままに、彼女は僕に振り向いた。冷静さを装ってはいるが、メガネの奥の大きな瞳には驚きの色が見える。
「遅くなってごめん。寒かったよね。」
肩ほどにまで伸びた彼女の綺麗な黒髪には雪がかかっている。しかし彼女がそれを気にする様子はない。
昔からそうだった。熱中すると他の事に意識が向かなくなるのだ。
「君はまだカメラを持ち歩いているんだね。」
僕はベンチに腰をかけ、彼女の返事を待った。
「世界の一瞬を切り取るの。時の止まった世界が、写真の中には存在しているのよ。」
彼女がじっと僕の目を見つめて、ゆっくりと、まるで自分にも言い聞かせているように答えた。
「でも君は、僕に写真を撮られることは嫌がった。」
僕は彼女と過ごした日々を思い出す。
「あなたに切り取られた私に嫉妬をしたくなかったの。あなたの目の前にいる私が、この世で唯一の私。それ以外の私は、私ではないのよ。」
「そのせいで僕は君の写真を一枚しか持っていないよ。」
僕の口元が少し緩んだ。
今僕の目の前にいる彼女は、まるで時の止まった世界を生きていたかのように、あの頃の若く美しい彼女のままだ。
彼女が逝ってしまってから五十年。僕の顔には深い皺が刻まれ、足も不自由になり、杖がないと一人で歩くことも出来ない。
「僕は随分老けてしまったよ。君はよく僕だと分かったね。」
「だってあなたは毎年雪の降る日には必ずここに来ていたでしょ。私にはあなたが見えていたの。あなたに私が見えていなかっただけよ。」
「今は僕も君のことが見えるし、こうやって話すこともできる。」
「そうよ。やっとあなたはここにいる私に気付いてくれた。」
そう言うと彼女は微笑み、僕の右手を取った。彼女に引っ張られて僕はベンチから腰を上げた。左手で杖を探したが、不思議と身体が軽く、杖が無くても立てることに気付いた。
僕は彼女を見つめた。
「ずっと君に触れたかった。君と話がしたかったんだ。」
僕は繋いでいる彼女の手を引き寄せ、その存在を確かめるように強く彼女を抱きしめた。
翌朝、高台にある公園のベンチで、凍死している老人の遺体が発見された。
彼の右手には一枚の写真が握られていた。
それはこの公園で撮られたものらしく、雪の降る中で少し驚いたように振り向いた瞬間の、美しい女性の写真であった。
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