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「二見(ふたみ)さん俺、帰るけど……」
「うん、バイバ-イ」
「帰るけど。ちゃんと一人で帰れんの?」
バイバーイと振る手の向こうで、後輩の苦笑顔が古い映画のスクリーンのように、ちらちらとコマ送りに見える。
「あんたタクシー乗っけてからじゃないと、俺帰れないわ」
普段から先輩に対して敬語など使わない彼が、わざとらしく嘆く。本社にいた頃から付き合いのある男なので、お互いに気安い、気の合う友人だ。彼は上期の内に営業職を離れて技術職に移ってしまったが、連れ立って飲み歩く関係は変わらない。
「ほら、立って」
バスロータリーとの境の柵に腰掛けて動かない摂の、二の腕を掴んで引っ張る。力強く掴まれたわけではないが、摂は大げさに腕を振ってそれから逃れた。
「いーい」
「酔ってんなあ」
「酔ってるけど。コーヒー飲んでから帰るからいい、ひとりで乗る」
駅前のスクランブル交差点を斜めに横断するとすぐの、夜の街の巨大な照明となっているファミレスを指差す。ガラスの向こうの明るい店内が、心地よく、くらりと揺れた。
肩を竦めた乾が摂から離れ、ゆったりした足取りで自販機の列に向かう。コインを入れる動作のあとこちらを振り返るので、
「あっまいやつ!」
片手で作ったメガホンを口の横に当てて、数メートル先のウェイターに呼びかける。オーダーに一寸指先をさまよわせた彼が、ガコ、長い身体を窮屈そうに折った。
摂の差し出した手に缶を押しつけて、乾は念を押すのを忘れない。
「これ飲んだら、帰んなよ」
「ありがと」
十月の空気に冷えた手に、缶コーヒーがじわりと熱い。
「どういたしまして。それより明日、結婚式じゃん」
「あー、どっか知らない教会でね。なんだっけ名前」
「知らん。俺、出んの披露宴だけだから」
「道調べなきゃなあ……」
摂は呟いて、両手の中でスチール缶をコロコロと転がす。
「そうそう。ちゃんと起きて、ちゃんと行けよ?」
「はいはい、はい、うるさいなあ。もういいから帰ってあげな、寂しがってるよ」
革靴のつま先で後輩の脚を蹴ってやると、頭上の乾が小さく笑った。
「……向こうが夜勤だっての」
じゃね、軽く手を上げる彼に缶コーヒーを掲げて応える。姿勢の良い後ろ姿がコンコースの遠くに紛れていくのを、ぼんやりと眺めていた。
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