トラディショナル 継承の美学

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――空を飛びたい――  月の光が窓から差し込む。なるほど歌に読まれるだけはある、夏の夜の満月は一層鮮やかで美しい。光をめがけてショウジョウバエがガラスを叩く。カエルの合唱がやかましいほどに聞こえてくる。「草木も眠る丑三つ時」などと人は言うが、寝ているのは草木くらいだと思われる程に賑やかだ。  そしてここにも眠らぬ者がいた。うず高く盛られた桑の葉っぱ、食料と寝床を兼ねるこの山の中からもぞもぞと這い出ると、月に向かって大きく背伸びした。  彼女の名はヒメコ。とある養蚕農家で生まれ育った、蚕のメスの一匹だ。 「そりゃあ、怖いですわよ。だって外のことは何にも知らないし、空の飛び方だってわからないんですもの」  かつて日本を支えた養蚕業、ピークを過ぎた今でも伝統産業として大切に守られている。良質な生糸を効率良く得るため、人々は知恵や技術、そして「おカイコ様」への感謝の気持ちを受け継いできた。厳しく管理された環境の中には、天敵も天災も食糧難も有りはしない。平穏無事な一生が約束されていた。  だが、ヒメコは満足していなかった。 「我々蚕は成虫になると『カイコガ』となり、翅(はね)を獲得しますのよ。それは当然空を飛ぶためのものですわ。でも、ここにいては成虫になる前に死んでしまいます。私、そんなの嫌ですわ。せっかくの翅なんですから、空を飛びたいのです」  ヒメコは農家を抜け出すことを決意した。   仲間たちは反対した。上手くいきっこない。すぐに鳥に食べられて終わりだ。それに多くの人間たちが質の良い生糸を待っている。蚕の本分をわきまえるべきだ、と。  それでも、ヒメコは聞かなかった。 「せっかくの命です。悔いの残らぬよう、自由に生きてみますわ」  果たしてヒメコは、無事にカイコガとなり大空へ飛び立つことが出来るのか。  今回の『トラディショナル』は、自由を求め伝統の世界から飛び出した蚕の一生に密着した。
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