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○ ○ ○
「あれに抱かれるのかと思ったら、何かもう、どうしたらいいのかと・・・」
「授業中に破廉恥な事を考えてんじゃねぇよ」
鼻血の心当たりを素直に話すと、宮永は完全に呆れかえったようにそう言った。
返す言葉もありません。
「・・・面目ない」
しゅん、となりつつ、借りたタオルで洗ったばかりの顔を拭いた。
「悪いな、タオル汚しちゃって」
顔を拭いただけではない。
血も拭いたので、所どころ色がついてしまっている。
これは弁償だな。
「別にいいよ。部活用に何枚か持ってきてるし」
宮永は、特に気にしている様子もなくそう言う。
そう言えば、運動部だったな。
「バスケ部だっけ」
「バレー部な」
記憶を辿って言ってみたら、食い気味に訂正されしまった。
そうそう、バレー部だった。
「悪いと思うなら、今度部活に顔出してくれよ」
「オレが?」
突拍子もない申し出に思えて咄嗟に訊き返した。
オレがバレー部に顔を出して、何がどうなる訳でもなさそうだけど。
「ウチのエースが、荻野のファンなんだ」
宮永の揶揄するような言い方に力が抜ける。
「ファンて」
芸能人じゃあるまいし。
「モチベーションが上がるだろ」
「そうかな」
全くの素人だからアドバイスもできないし、何の意味もないように思えるが。
「無自覚なのは相変わらずだな」
やれやれ、と溜息混じりに宮永が言う。
そこでようやく、自分が「そういう」存在となってしまっていた事を思い出した。
「しょーじき、どうなんだ、それ」
溜息を押し殺すようにして言った。
「どうって?」
「オレには全く理解できないんだけど、オレを見て嬉しいとかやる気が出るとか本気で言ってる?」
訊くと、宮永は大袈裟に首を横に振った。
「俺にも理解はできない」
宮永ならきっとそう言ってくれると思っていた。
何しろ、オレの事を「ムカツク」と評してくれる奴だから。
本来なら、そんな事を言われたら怒るところだけど、最近のオレには貴重な意見だ。
「だけど、そういう奴がいるのも事実だな」
そう言った宮永の声は淡々としていて、妙に真実味がある。
「それに、蔵原もその類だろ」
「そうは見えないけどな」
オレが知っている武威は、オレなんかで一喜一憂するような奴ではない。
むしろ、「また馬鹿な事をしやがって」と眉間に皺を寄せてばかりだ。
その蔵原武威が、オレを見て「嬉しい」と思う事なんてあるのだろうか。
いや、無いな。
「蔵原は、荻野の前ではデレてないのか?」
「ないって」
と言いながら、宮永の言う「デレる」とはどういう状態かを考えていた。
甘やかすとか、猫可愛がりとか、少しの間も離れたくないとか、そういう状態だろうか。
考えられないな。
あの武威が、オレに対してそんな事になるとは到底思えない。
「むしろ、オレに興味がないような気がする」
「それこそ無いだろ」
宮永の即否定が早い。
しかし負けてはいられない。
「あれから一週間経ったのに、手も繋がないし、キスだってオレが不意打ちでした一回だけだし」
思えば、その中途半端な一回が良くなかった。
下手に掠ってしまったから、その感触がやけに残って妙な考えに及んでしまう。
「そもそも、オレに興味無いと考えれば辻褄が合う」
自分でも、クラスメイトに何を言っているんだという情けない気持ちになってくるが、相手は宮永だ。
今のオレ達の状態に対して、一番適格な意見を言ってくれるであろう人物なので、この際情けなさには目を瞑ることにする。
「お前、それ本気で言ってる?」
そう言った宮永の声が低い。
「割と」
あのポストカードから始まった一連の出来事も、何かの間違いなのでは、と思い始めているくらいだ。
「やっぱムカツクわ、荻野」
吐き捨てるような宮永の言葉は、むしろ心地良くさえ感じる。
遠慮の無い言葉に親しみを覚えてしまうのだろう。
「その言葉は有り難く頂戴するとして」
「いや、頂くな。引っかかれよ」
「抱かせろって言ったクセに何も無いなんて、おかしいと思わないか?」
突っかかってくる宮永の抗議は聞こえないふりをして、こちらの疑問を優先させてもらった。
オレとしては尤もな疑問だと思うのに、宮永にはそうではなかったらしい。
「思わない」
はっきりそう言い切られてしまった。
「好きな奴がすぐ傍にいて、5年も手を出さなかった奴だぞ。さあどうぞって言われたからって、そう簡単に行動に移せるとは思えない」
「5年!?」
面倒そうに言う宮永の言葉には、オレの知らない情報が入っていたため思わず声を上げてしまった。
「あいつ、そんなに前からオレの事をそんな風に思ってたのか」
「ずっと」とは言っていたが、そんなに長いとは思わなかった。
予想以上だ。
「そーだよ!」
投げやりな宮永の肯定を聞きながら、5年という重みに呆然とした。
5年前といえば、中等部に入学した頃だ。
つまり、オレと武威が出会った頃という事になる。
そんなに長い間、同じ人間を想い続けるなんて、オレには想像もつかない。
何より、申し訳ないことをしたと思う。
オレはたった数日でも辛かったというのに、それが5年間もなんて。
武威にしてみれば、つい最近自覚したばかりのオレと一緒にしてほしくはないだろうな。
相手を想う歳月の差を埋めるには、オレは一体何をすれば良いのだろうか。
考えた所で、武威が何を望んでいるのかも分からない。
「これは、オレから攻めた方がいいのかな」
不意に浮かんだ事を口にしてみる。
「俺に聞くな」
宮永の表情は、あからさまに引いた心情を隠していない。
他に相談できる人がいないから聞いているというのに、その態度は少し傷つく。
山岸ならちゃんと話を聞いてくれそうだが、これ以上後輩に情けない姿を見せるのは気が引ける。
やはり、宮永を頼るしかないんだよな。
「オイ!!」
突然、どこからともなくそんな大声が廊下に響いた。
声だけで怒っていると分かるその声は、すぐ近くから聞こえた。
驚いて咄嗟に振り向くと、そこには何故か武威の姿があった。
「あれ?」
どうしてこんな所に武威がいるのだろう。
今はまだ授業中の筈なのに。
「お前ら、廊下でそんな話をしてんじゃねぇーよ!」
首を傾げていると、武威はさきほどと同じくらいの音量でそう叫んだ。
今の話を聞かれていたようだ。
多少の気まずさを感じつつ周囲を見ると、先ほどまではオレと宮永しかいなかった廊下に、生徒たちが行きかっている。
気付かないうちに授業が終わっていたようだ。
オレたちの周りには、遠巻きだが少しばかり人だかりができてしまっている。
突然武威が現れた理由は分かったが、そんなに怒るような話をしていただろうか。
顔を真っ赤にして怒鳴る武威を見ながら、先ほどまでの宮永との会話を反芻しようとした時だった。
「と言うか、どうしたその血はっ!」
オレが手に持つ、借りたタオルにべっとりと染み付いてしまった血に気付いて、武威が更に声を上げた。
「またどこか怪我したのか!?」
オレの手を掴んで、少しばかり失礼な事を言う。
まるで、オレがいつも怪我をしているような言い方だ。
いくらオレでも、流血するような怪我は「また」と言われる程はしていない。
打撲程度ならしょっちゅうだけど。
「怪我じゃなくて、鼻血」
「鼻血?」
顔を顰めながら、武威は両手でオレの頬を掴むように持った。
まるで、小振りのスイカでも持っているかのようだ。
「何で鼻血なんか」
心配してくれるのは嬉しいが、理由が理由なだけに心苦しい。
訝る武威の呟きよりも、呆れと冷たい視線を向けているであろう、事情を知っている宮永の反応が気になってしまう。
「欲求不満らしいぞ」
ぶっきらぼうな宮永の言葉が、見事なまでに的を射ていて反論もできない。
「は?」
間の抜けた声と共に、力も抜けたらしい武威の手から顔が解放された。
オレは、武威のその手をそのまま掴んだ。
言葉の意味を理解できていないらしい武威の目をじっと見る。
武威の表情に浮かぶ、困惑の色が強くなった。
「そうらしい」
多少の恥じらいを見せつつ、宮永の呟きを肯定する。
情けないが本当の事だ。
一人で悶々としているより、相手に伝えてしまった方がよっぽど健全だ。
しかし、言葉が少なかった所為か、それとも唐突すぎた所為か、武威にはこちらの意図は全く伝わらなかったようだ。
「はぁ!?」
一瞬の間の後、信じられないものを見てしまったかのような叫び声が再び廊下に響いた。
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